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[コメント] トイ・ストーリー3(2010/米)

本来は全く関係のないオモチャたちで一つの物語を創造=想像すること。小さく卑近な生活空間を、広大な冒険の舞台として眺める眼差し。トイ・ストーリーという映画は、映像を用いたオモチャ遊びそのものだった。[XpanD 吹替]
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







それ故に、アンディがオモチャたちとの別れを強いられるシーンでは、観客は彼と同じ目でオモチャたちと最後に向かい合うことになる。過去二作を観たかぎりでは別段印象には残っていなかったアンディだが、今作のラストで、オモチャたちの持ち主として作品世界を成立させてきた存在感が急浮上。

空想、想像を介してオモチャと持ち主は世界を共有する。イモムシ組の幼児たちが遊び手としてオモチャたちから忌避されるのも、ただ振り回したり舐めまわしたりするだけで、一緒に世界を作り上げていく相手ではまだないからだ。

ミス・ポテトヘッドの片目がアンディの家にあることで、オモチャたちの帰るべき場所と繋がる糸口となっている。取り残され、定点観測カメラと化した片目が、遂にミス・ポテトヘッド自身の姿を捉え、彼女がそれをはめ込むことで、在るべき場所への復帰、というカタルシス(=アンディの許に居るべきオモチャたちの帰還)を観客もまた実感する。加えて、片目が損なわれている点では共通しているビッグ・ベイビーの、帰るべき場所を持たない悲劇的な境遇との対比ともなっているだろう。

モンキーの、真ん丸な目を見開いてシンバルを叩くというお馴染みの造形が、監視者としての滑稽さと恐ろしさを共に成立させていること。可愛らしい姿をしたチャターフォンを、渋い、孤独な協力者として位置づけること。他のオモチャと違って、黙って固まっていることによって自身の「演技派」としてのキャラクター性を主張するMr.プリックルパンツ等々。直球や変化球を縦横に駆使しての、オモチャたちのキャラクタリゼーション。ロッツォがバズの説明書を厳かな調子で読み上げるシーンは、説明書の支配から逃れられないオモチャの限界が哀しく、それをオモチャのクマが利用する残酷と、それでいてシーン自体はコミカルでもあるという、トイ・ストーリーならではの味わいが堪らない。

そして、あの焼却炉のシーン。その炎はもはや赤さを通り越して、極限に達した色として白の印象の方が強い。作品世界がオモチャサイズに縮められていることで、焼却炉の業火も、あたかも太陽に突入するかのような、極致の悲壮感を漂わせる。それ故に、手を取り合って炎に向かっていくオモチャたちの姿には、瞠目すべき崇高さが表れる。文字通り「天からの救いの手」として降りてくるロボットアームも然り。それを操るリトル・グリーン・メンの「カミサマ〜」は、UFOキャッチャーの景品だった彼らがアームを神として崇めていることによるのだが、その直前の、究極の地獄絵図との対比によって、観客は本気で「神」を感じてしまうくらいだ。後から思い返せば、あんなに脱力的な救済も無いくらいだけど(笑)。まさに神レベルの演出力。

「幾らでも代わりはいる」と、オモチャの立場に絶望しているロッツォは、自分たちが幼児らの乱暴な扱いを受けないでいる為の「代わり」として新入りをイモムシ組に追いやってしまう。彼のトラウマは、ロッツォを失くした少女が代わりの同じヌイグルミを買ってもらって抱きしめていた光景。その一方でケンは、ロッツォに「代わりはいるだろ」と言われても「僕にとっては彼女の代わりはいない」とジェニーを庇う。そして何より、代わりの持ち主に遊んでもらうことを頑なに拒むウッディの、アンディへの一途さ。

そのウッディは最後には、これもまた掛け替えのないオモチャ仲間たちと一緒に、新しい持ち主=ボニーの許に留まることになる。そのウッディに対しては最後までこだわりを示していたアンディが、ウッディを見て目を輝かせた少女ボニーの姿に、後ろ髪を引かれながらもウッディを渡すシーンは、オモチャを「かつて遊んだ」という過去の思い出の品とすることよりも、子どもの手で遊ばれるものとして活かすことこそオモチャ本来の在り方だという、『トイ・ストーリー2』でも描かれていたオモチャ観の表れだ。

オモチャは手にとって遊ぶ為のもの。ロッツォの元持ち主の少女は、失くしたオモチャの中で特にロッツォを気に入っていたからこそ、同じものを欲しがった、乃至は親がそれを察知して買い与えたのだということは、容易に推測できる。一方、遊ばなくなったオモチャへの愛着は例えば、ロッツォが最後、「昔これを持っていたんだ」とか何とか言って彼を拾い上げた運ちゃんによって、トラックの前部の飾りとして磔にされる、といった形に行き着いたりもするわけだ。

思い返せば、ロッツォがバズたち新入りにサニーサイドを紹介するシーンでは、「子どもたちが成長しても、また次の子どもたちが来て遊んでくれる」と、持ち主たる子どもたちを入れ替え可能な存在として語っていたのだ。結局、オモチャと持ち主という、限られた時間しか共有できない関係性は永遠に続くことなどない。「遊ぶ」関係が終わった後で、所有し所有されるという関係だけが残されることが、必ずしも最良とは言えない。アンディがボニーとオモチャで遊ぶシーンが感動的なのも、アンディがこんなに本気でオモチャで遊ぶのは、これが最後だろうということが分かるからであり、アンディ自身もそれを分かっているからこそ、かつて子どもだった自分をボニーに投影させ、本気で遊び抜こうとしているのが感じられるからだ。ボニーは自分の空想をオモチャに投影しているのだが、そんなボニーに子ども時代を投影させるアンディ。ここで彼は、幼い頃の彼がオモチャ遊びするのをホームビデオで撮っていた母親の目線に近づいている、とも言えるかも知れない。

ところで、ネット上では着け心地に関してやたらと不評なXpanDを初体験することになったが、言われているほど困った眼鏡ではなかった。たまたまサイズが自分に合っていただけなのだろうけれど。ただ、画面が暗めになる点だけはマイナス。

(評価:★4)

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