コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] カラフル(2010/日)

実写的な光景を、絵として丁寧になぞること。主人公が絵を得意にしているという設定と併せて、世界からその「カラフル」さを拾い上げ写しとるという行為そのものが、作品の主題との一致を示す。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「カラフル」さとの対照性として、プラプラ(まいける)の髪や瞳や服装さらには肌までもが青みがかった灰色に統一されていることを挙げるべきかも知れない。最後に明かされることだが、彼は世界が「カラフル」なものたちが支えあうことで織り成されているという真実に気づくことができなかった魂なのだ。

灰色といえば、主人公(冨澤風斗)がひろか(南明奈)を追うシーンでも、雨が降る曇り空で、世界は灰色がかっていた。ひろかが真の絵の前に立って黒の絵具を握りしめているシーンでは、黒という、「カラフル」であることを否定する色であるからこそ、ひろかが眼前の絵を破壊する衝動に駆られていることを、真と共に観客も理解する。だが真は、そんなひろかの衝動を、自分にもそんな時がある、と理解を示す。「カラフル」を否定する色さえもが、人間の「カラフル」な在り方の一つとして受容されるのだ。尤も、このシーンでの真の台詞辺りから、幾分、説明的な台詞が目立つようになるのが気にかかるのだが。

真として人生をやり直した魂が、結局は真としての生を反復していたのだということ。与えられたものとしての生の偶有性を、もう一度受け入れ直すための「修行」。この、生の「反復」というところで僕はやはり、細田守監督の『時をかける少女』を想起する。あちらがひたすら、ヒロインの溌剌とした、または暴走したアクションを推進力としていたのに対し、本作は、ラブホテルに入ろうとするひろかの手をとって疾走するシーンでさえも画面そのものが躍動することはなく、多分に静的だ。そして、「だいたい半年くらい」という曖昧なタイムリミットに向けて、かなり淡々と時間が経過していく。前世の罪を想起する、という課題もあるのにこんな調子で大丈夫なのかとこちらが心配させられてしまうが、この淡々とした日常こそ真が(再)発見すべきものであったことが、最終的には理解されるわけだ。

原作の小説自体がそうだったのだろうが、本作は所謂「叙述トリック」に類するのだろう。真が自身の生をやり直していることを観客に悟らせないために、冒頭シークェンスは主観ショットと字幕を採用している。病院のベッドで「真」の声と顔とに違和感を覚えるところから地上の生を始める主人公は、次第に、「真」の人生が遅からず再び失われることについて、自分の「再チャレンジ」の生が終わることよりも、真の家族が、再び、そして決定的に真を失うことに対して、僅かながらも心配するようになっていたように見受けられる。自身にまとわりつく気遣いや眼差しの鬱陶しさを、「真」へのそれとして、ガラス板一枚を隔てたような客観視をすることで、やはり鬱陶しがりながらも受け容れはじめることになるのだ。「真」を気遣う他者の生そのものを気遣うことで、「真」の生もまた肯定されはじめていく。再生前の罪について、「自殺」を、小林真の「殺人」と言い換えている台詞もまた、ズレを孕んだ反復であるが故に自らを肯定しえた、という物語の構造を端的に示している。

全篇を通して最も気の毒な役回りにされているのは、真の母(麻生久美子)だろう。あのびくびくと真の顔色を覗いながら気を遣う仕方が神経に触る面が描かれてはいるものの、真の反撥と無視はそれ以上に酷いようにも感じられる。たぶんこれこそ原恵一による観客コントロール術なのであり、父(高橋克実)が、釣りのシーンで「あんなに否定されたら辛いぞ」と穏やかに諭してくる台詞がきちんと響いてくることが必要だったのだ。というのも、真自身が、数少ない人間たちからにせよ、存在を肯定されていることの価値を観客が理解できなければ、物語が成立しないからだ。笑顔でさえ暗い母の様子を見ていると、今度は彼女の方が自殺しやしないかと思えてくるのだが、真が自殺した際に飲んでいたのが母の薬だという点でも、この二人の生が重なって見えてくる。

再生して、性格が変わってしまったらしい真に対して唱子(宮崎あおい)の言う「なんか違う」が、最後には、やっぱり小林君だ、という肯定へと回帰すること。これは、性格が元に戻ったというよりは、様々な「カラフル」さを抱えた上での小林真を彼自身が獲得したということだろう。自殺する前の小林真は、教室や家庭といった狭い世界で、自らの生を一色に染めてしまっていた。唱子は、「黒い」噂が流れているひろかについても、それが本当だとしても彼女を嫌いになれないと言っていた。この台詞があるからこそ、頑なに自身の「小林真」像に拘っているのではないという点が担保されている。尤も、彼に抱いているのは仲間意識であって恋愛感情ではないという台詞の真偽も含め、曖昧さは残るのだが、それも含めて人生だとは言えるかも。

アンジェラ・アキの“手紙 〜拝啓 十五の君へ〜”の挿入は、いかにも卒業式で歌われそうな曲であることで、真が中学時代の終わりと高校時代の始まりへと歩んでいるさなかであることを改めて確認させるし、未来の自分へ向けての手紙、という歌詞の内容そのものがまた、ちょうど十五歳の真と重なるので、作品内では全く描かれない未来と過去の時間をこの歌が感じさせてくれる働きがあるのは確か。だが、やはり歌詞が直截すぎて、画面の自律性を乱すように思えてならない。この曲単体で聴くのとはまた違って、こうした形で挿入歌にされると、歌詞の内容が映画内に於ける「正しさ」として響いてくるのが些か煩くもある。結果、文科省推奨作品めいた雰囲気さえ漂うことに。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。