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[コメント] 彼女が消えた浜辺(2009/イラン)

子供の愛らしさと女性の美しさだけで充分に映画的な愉しみがあるのだが、ささやかな会話の織り合わせで見せる、複雑かつ、やはり単純でもある人間劇に魅せられる。そんな人間たちに対し、脅迫的とも、単に無関心とも感じさせられる波の音が、耳に残る。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







次々と郵便物が投函されるポストの口を内側の暗闇から延々と捉えたファーストカットは、ポストの口から漏れる光がそのままトンネルの出口から射す光へと移行していくように、旅行へ向かう一行の自動車移動シーンへと転じる。殆ど『2001年宇宙の旅』級の不条理なインパクトを感じるのだが(シャトルが宇宙ステーションに入るシーンでの、ステーションの入り口がポストの口に似ているせいでもある)、劇中で手紙が何か重要な鍵を握るわけでもなく、そもそも手紙など出てこない。これが『ヤコブへの手紙』などのファーストカットなら分かりやすいのだが。

とはいえ、手紙と絡めて考えれば、この『彼女が消えた浜辺』は、メッセージの伝達、意思の疎通が主題になっている。エリが最初に突然、宿からいなくなるのは母親に携帯電話で連絡するために、電波が届く場所へ向かった時。手紙ではないが、通信手段だ。電話はまた、エリの自宅に電話したり、「兄」と名乗る(そう名乗る理由がいまひとつ不明なのだが、イランの観客には自ずと理解できる事情があるのだろうか)婚約者と広場で落ち合う際などにも用いられる。この、電波が届く届かないという遣り取りがまた、海辺の宿という場所の隔絶感を演出する。

セピデーは、宿の女主人から「お客が来るから一泊しかできない」と言われていたのに、「来れば何とかなると思って」と、三日の旅に皆で来てしまうような、思慮の足りない行き当たりばったりな女性で、そのくせ、「婚約を解消してから」と渋るエリを、引き合わせたい男、アーマドがドイツに戻ってしまうということで、かなり強引に旅に同行させたらしい。そしてエリからは、婚約者がいることは隠しておいてくれと言われていた。もうこの時点で、彼女一人でも色々と齟齬や隠し事が生じている。また最初は、エリに対して、アーマドがドイツ人妻と離婚問題で揉めていたことは隠そうとしていたようだが、別の男が軽口を利いて、裁判の様子をおどけた調子で口にする。セピデーがエリのバッグを隠していたせいで、皆は一度、エリが黙って帰ったのだと考えようとするし、セピデーが、エリの婚約者の存在を知っていたことを、先に知ったアーマドは、皆に嘘をついて隠していた。等々。皆で愛想よく招待したはずのエリが消えたことで、彼女に対する言動で何か機嫌を損ねなかったか、彼女は任された子供を放って勝手に去ってしまうような人間か、と、にわかに右往左往する。エリの婚約者をうまく騙そうとして、子供たちとまで口裏を合わせたのに、宿の女主人に、エリとアーマドを「新婚」と紹介していたせいで(これも、宿を得ようとするセピデーの、同情を誘おうとした嘘)、女主人の一言で計画が瓦解してしまう。

行き違いと嘘が何度も交錯するが、謎解き的な興味で観客を引き込む類いの映画ではない。意思の伝達、という意味では、夜の余興として皆が行なうジェスチャーゲームは、子供も大人も一箇所に集合して、笑顔で理解しあう光景だった。ここで観客は、ジェスチャーを読みとこうとするメンバーと同じく、身振り手振りを繰り広げる人物の姿だけを捉えたカットを注視することになるのだが、これと類似したカットとして挙げるべきは、やはり、浜辺で子供たちと凧揚げに興じるエリを、カットを重ねて捉え続けるシーン。凧は見えず、ひたすらエリが糸を手に浜辺を走る姿だけを捉える。ここで最後のカットでエリは、急に険しい表情になり、「持っていて。行かなくちゃ」と子供に告げる。観客は、それに先立つシーンで、心臓が悪いから心配させたくない母親に「一日だけの旅」と告げていたエリが帰りたがっていたのを見ているので、母親に連絡しに行ったか、帰るかしたのだろうと推測するのだが、最後に遺体安置所で彼女の遺体が確認されたことで、「行かなくちゃ」は、溺れる子を助けるために行かなければ、という意味だったのだと知る。思えば平凡な事実であり、それが明かされるシーンもあっさりしたものだが、彼女の職業が「保母」だということと相俟って、純粋に子供を思っていたはずの彼女の不在の内に繰り広げられた数々の思惑やディスコミュニケーションの顕在化のさまが、虚しくも物悲しく想起される。

序盤の、唐突に手拍子や歌と共に踊りと笑顔が繰り広げられさえする、いささか躁状態気味な幸福感や、薄汚い宿を皆で役割分担して掃除をするシーンの、狭い空間内に人が出入りする賑やかさ、子供たちの愛らしさなど、旅のシークェンスはそれ自体で映画的。だからこそ、中盤以降のサスペンスが活きもする。子供が溺れるシーンでの、広大な海の中から、小さな点のように浮かび上がる子供の姿を見つけ、そこへ泳いでいき、陸に戻るまでの空間展開も迫力がある。観ているこっちも、子供は助からないんじゃないかと本気で鼓動が高まった。また、日本人同士ではちょっとこうはならないだろうなという口論シーン。皆がそれぞれ大きな声で主張を投げ合う様子がそのままこの映画のプロットによく馴染んでいて、なにやら砲撃合戦のような会話劇が展開する。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)袋のうさぎ 3819695[*]

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