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[コメント] 恐怖(2009/日)

映画が映画であることの「恐怖」で登場人物、観客、世界の全てを喰らおうという野心に果敢に挑戦した、と「努力賞」を献呈できるほどの出来にも達していない。脚本の単なる肉づけにとどまらない映像の自律的な強度が生じない、典型的な脚本家監督の仕事。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







幼き日の姉妹の眼前で、両親が観ていた人体実験記録フィルムのスクリーンが、杉本博司の写真作品「劇場」シリーズよろしく真っ白になり、そのスクリーンから発せられていた光が後々まで姉妹の眼前に現れるようになる――この一連の場面を観てすぐに気がつくのは、この映画が描こうとしているのは、映画を観ている側の人間こそが実は映写機によって投影された虚像なのだという、一種の汎映画論なのだろうということ。実際、片平ママの台詞によって、そうした事態ははっきりと言語化されることになる。「画面奥から射し込む光」というスピルバーグ的意匠を、メタ映画的な「恐怖」と化してしまおうという発想は面白いのだが、所詮は脚本家でしかない高橋洋はそれを説得力ある強度の画面として定着させることがまるで出来ていない。芦沢明子は他の監督とは良い仕事をしているのであり、これは完全に高橋監督のせいだと決めつけたい。こうした題材は黒沢清に撮ってもらうのが圧倒的に正しいと思えるのだが、何で自分で撮っちゃったの?

大仰な脅かしで顔面を固め緊張させ通しな片平ママの演技は二時間サスペンス風の安っぽさだし、彼女の助手の女が悪役然とした黒づくめの格好でいるのも可笑しい。緑の照明で照らされた無機質な部屋に置かれたストーブが点けられることで赤い照明が加わる演出なども、ちょっとストーブ光りすぎだろと思えてしまう。全てが作り物めいて見えてしまうのもわざとそう演出しているのだという言い訳は、特にこの作品の場合は常に可能だろうが、観ていてバカバカしい気分にさせられるのもまた事実。エンドロールで「コンタクトレンズ協力」が表示されたときには笑ってしまった。

「全ては映画である」「世界は映画である」といった、世界の全てが映画であるようなシネフィルを恐れと歓喜に震わせるコンセプトが前面に出るにつれアホらしい気分にさせられるのだが、現に進行形で映画を観ている観客としての自分の立場と否応なく重なるのも事実で、例えば『メメント』を観たときのような、自分が現にこの目で見、この耳で聞いている事象の存在の確かさを疑わせる心地にさせる効果があるのも確か(『アバター』の3Dは、それを芸術的にではなく技術的に、強烈に実現した点が見事なのだ――ただ、どうやらIMAXで観ないとそれを感じられないようだけど)。

矛盾やパラドックス、不可能性の象徴として登場したと思しき「妊娠する処女」や、彼女について「自分の子に処女を奪われるんだ!」という嘲笑交じりの青年の台詞も何だか空々しい。処女のまま自殺しようとしたことの哀しみだとか、得体の知れないものによって腹を膨らまされていることの忌まわしさなどをうまい具合に演出しえていればよかったのだろうが、そんな手腕を期待できるような演出ぶりは皆無なのがこの作品。

ラストシーンで、集団自殺を試みた連中がワゴン車から運び出された後、かおり(藤井美菜)は地面に盛り塩を見つける。頭上には太陽――オープニングの満月との、また姉妹が見ていた謎の光との対応。また、母が好きだったという吸血鬼映画のことも連想される。吸血鬼は日光に当たると灰になってしまうという。「吸血鬼があんな断末魔をあげるのは、あの世が無いことを知っているから。人間はあの世があると思いたがるから、あんな断末魔はあげられない」。この母の言葉は、映画の中の虚構の存在(=吸血鬼)こそが、「あの世」を虚構とみなす唯物論的な存在であることを示している。ここに、先述した「一種の汎映画論」がある。

ラストカットでは、ワゴン車の中で交わされた会話、「自殺した人はどこへ行くの?」「どこへも行かない。ただ消えるだけ」が反復されるが、この台詞回しにしても、やはり高橋は、画面に対してだけでなく耳のセンスも酷いと言わざるを得ない。具体的な視聴覚的情報の微妙なニュアンスを調節して何ごとかを実現する映画力が欠けている。そうした弱々しく安っぽい表現でメタ映画的展開を捏ねくり回しても、児戯に等しい。エンドロールの最後に「終」の一文字をこれ見よがしに写すのも、テーマのダメ押しのようで失笑を誘われる。

片平ママが姉妹の母であるという点、つまり「マッドサイエンティストな母による脳手術」という物語の主軸が全篇通じて殆ど揺るがないせいで、頻繁に虚実が交錯していく割りには意外と一本調子で平板に見えてしまう。被験者に、棺桶内のホログラムで自身の亡骸を見せたり、女助手が「貴女には私が看護婦に見えているの」「貴女は死んだのよ」などと告げることで、被験者に対し、研究所をあの世として演出、偽装しているらしいことが見てとれるが、その意図するところが多分に曖昧であり、事象の背後で何かが起こっているらしいと感じさせるような、多層的な構造性が構築されえていない。単に観客に、夢か現か知れぬ幻惑を与えるつもりだったにしても、研究所に見えるその場所が、研究所ではないのかとも思えてくるような曖昧さ、多義性を演出するような緻密さが全く欠けているので、何をくだらないごっこ遊びをしているのかと、醒めた気持ちにさせられる。

『映画芸術』430号の「2009日本映画ベストテン&ワーストテン」には高橋も寄稿しているのだが、その文章を読めば彼がこの『恐怖』のような作品を撮った動機も窺い知れる。「(…)イーストウッドの『チェンジリング』や『グラン・トリノ』を見て感じるのは、人々は画面に写っているものをあっさり人間と信じ込んでいるのではないかという疑念であった。本当は複製に過ぎないのだから人間とは違う"別の生き物"として扱うのが当たり前だったものが(そこで"別の生き物"としていかに立ち上げるかが映画の想像力であった)、そうした努力は一切放棄してよいという指令がアメリカから発せられ、いつの間にかそちらの方が当たり前になって、人間ではないものに人間の価値観やら倫理をそのまま当てはめる欺瞞が広がりつつあるのではないか」。

だが、こう語る彼が『グラン・トリノ』に望むラスト(ネタバレになるので引用はしないが)もまた人間的、あまりに人間的に思えるのであり、"別の生き物"であるはずの複製人間(『恐怖』のような映画を念頭に「幽霊」や「分身」と呼んでもいいだろう)の振る舞いが意外と矮小かつ想定内のものでしかないことの退屈さをこの文章には感じる。それ以前に、彼が『禅 ZEN』だの『カムイ外伝』だのを好意的に評価している時点で、『恐怖』の画面の薄っぺらさに合点がいってしまうのだが。そもそも『グラン・トリノ』のイーストウッドが「人間の価値観やら倫理」の枠内にきれいに収まったものだと本気で考えているのだとしたら呆れる。あのイーストウッドこそが、自ら進んで「アメリカ」+「映画」の「幽霊」/「分身」として自らの身体を提供しているのが見てとれないのだとしたら、結局高橋は脚本の外形的な構造だけを読んで済ませ、具体的な画面に何が起こっているのかに目を凝らすことのない観念的な「物書き」に過ぎないと言うしかない。

脳に直接刺激を与えて幻覚を見せる、乃至は「霊的に進化」した者だけが見えるものを見る、という一種の「究極の映画」は、意外と『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』などとも類縁性があるのだが、いまだに「映写/投影」という遠近法的焦点を求める感覚は、コンピューター内のデジタルデータに全てが還元されうる現代にあっては既に古い。この点に関して言えば『マトリックス レボリューションズ』の方がまだ認識が妥当。

(評価:★3)

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