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[コメント] 裸足の伯爵夫人(1954/米)

視線の中の、抽象的な存在としてしか生きられぬ女。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ボギーを除いて、この映画に登場する主な男たちは皆一様に、情けない不能者である。マリアの父は妻から虐待され通しだったというし、この父による妻殺害時も、彼を弁護することでマリアの株が上がるという形で、結果的にはマリアの出汁にしかなっていない父は、極端に影が薄い。マリアをめぐって対立するリッチマンも二人とも、家の財産で食っており、自らは働いていない。マリアが想い描いていた理想の王子として登場したファブリーニ伯爵さえも、時代の遺物として消えるしかない貴族の運命を甘受している上、戦争で不能になっており、マリアと共に肖像画を残すことしか望んでいないのだ。

だが、マリアもまた終始、他人から見られる女として、抽象化された存在でしかない。まずは彼女の葬儀の場面から始まるこの映画は、墓石に向けて視線を送る参列者たちの沈鬱な表情によって開始されるのだが、マリアの登場するシークェンスに於いても、まずは、踊るマリアに視線を送り喝采する客たちの表情しか映らず、マリア自身の姿は現れない。マリアの存在感や美しさは、店の客たちの盛り上がりようから推測はできるのだが、その後も、マリアという人物の個性は、店の主人が語る「彼女は一度しか踊りません」「彼女はお客のところへは来ません」や、「彼女のルールなんです」と金銭を断る台詞、また、彼女を呼びに行った宣伝担当のオスカーが、全く太刀打ちできなかったと報告する台詞などで間接的に語られる。そこでボギーがマリアの許に出向いて初めて、彼女は生身の存在として登場することになる。

その後も、女優としてスター街道を進んでいるらしいマリアのその銀幕での活躍というものが、全く見えてこない。美のシンボルとしてのマリアという設定は、抽象的な事柄として描かれる。それは、女優の後にマリアが得る「伯爵夫人」という立場にしても同様だろう。マリアが唯一心を開いている様子のボギーにしても、マリアとは違う穏やかな美しさを湛えた妻と幸福に暮らしており、マリアと生々しい関係になることはない。

金持ちのプロデューサー、カークは、マリアをスカウトするシークェンスで、同席していた若い女が、彼は何でも金で買えると言うのに対し、「魂は神のものだ」と反論する。この言葉そのものは立派なようでもあるが、後にマリアは、伯爵から下半身の後遺症について告白された際、「心でしか君を愛せない」と宣告されるのだ。女優として、肖像画として見つめられる対象としてしか望まれていないマリア。南米の富豪アルフベルト・ブラヴィーノにしても、マリアと付き合っているというふうに周りから思われることが重要なのであり、彼女の存在そのものを欲しているようではなかったのだ。

ボギーから「靴を履いている時だけは私の言うことを聞く」と評されたマリア。伯爵と結婚した後、自身の彫像のモデルになった時には、裸足に、つまり素の自分になっていたのだが、結局は、肖像画として永遠に、かつ抽象的に生き続ける「伯爵夫人」としての未来しかない。伯爵の為に子を残そうと、他の男と肉体関係に及んだことが明らかになると、そうした生身の女としての彼女は、他ならぬ伯爵によって射殺されるのだ。「裸足の伯爵夫人」とは、なんと悲劇的な題名なのか。

マリアがボギーと初対面したシーンでは、彼女は裸足で、恋人との逢いびきのさなかだった。マリアは、その最初の地点へと、大きな迂回を余儀なくされながらも回帰しようとし、死という着地点に墜ちたのだ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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