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[コメント] ダゲレオタイプの女(2016/仏=ベルギー=日)

黒沢清が「ダゲレオタイプ」と「女」を撮るならこうだろう、という予想の範囲内に過ぎないという文句は矛盾しているだろうか。清の映画でこのタイトルだと知って観ているのだから。
煽尼采

否、この映画には、銀板にじっくりと像を定着させるダゲレオタイプに相応しいような執念、怨念が足りない。ダゲレオタイプの撮影において被写体は、拷問具にさえ似た器具による体の固定という肉体的苦痛と、微動だにしないことへの緊張による、仮死に等しいような意識状態を強いられる。その、撮影者の偏執そのものである異常な長時間の撮影が行われる、時間の耐え難い停滞というものが、まるで演出されていない。

どうしてこうも効率的にとっととシーンを移行させるのか。写真の静止性を、映画という動的、時間的なものによってこそ表現できるという、そこに期待して観るのが当然だと思うのだが、それは完全に裏切られる。

全篇に渡り、館の各所に置かれた鏡や、永遠性を死と結びつける水銀、ダゲレオタイプのモデルの不動と献身の暗喩としての植物、永遠性との対比としての、過ぎゆき消費される時間の暗喩であるファッション写真、停滞した時間との対比としての、未来の象徴である開発計画との対峙、更には、永遠の誓い、といった仕掛けは一通り揃えられてはいるが、そうした仕掛けがドライにカラカラと動いて終わっただけという印象。何より、肝心のダゲレオタイプそのものを、人を凝固した永遠性へと移行させてしまう不気味な機械として迫ってくる存在として見せてくれないのが不満。

敢えて行なうソフトフォーカスや、影に浮かび上がる人物像、といった、生身の人間の虚像性を視覚化してみせる手腕には黒沢らしさが光るが、そうしたテクニックが活きるのは、それと対照をなすウェットな情念をも演出し得ていた場合だろう。そうした情念が、乾ききった永遠の像へと吸収されるさまを見せてこそ、真に戦慄的な作品となっただろうに。

よく思うのだけど、映画の中で男女が惹かれ合うのって、具体的にこういう出来事があって、そこで目にした相手の表情や言葉のこうした細部が、恋する者の中へ侵入していったのだという、そうした過程が描かれていなければ、恋する二人の振りをした人形でしかない。そうした具体的な、恋へと入っていく瞬間というのが感じられないままに、なんとなく恋する二人に移行していて、それを映画的な約束事として当然視しているような演出は、怠惰でしかない。映画に若い男女が現われたなら、二人が恋する存在へ移り行くのは映画にとって自明、といったように考える、映画の制度性に自らの精神を犯されることに、却って悦びを見出すような「シネフィル」にとっては、どうでもいい話だろうけど。

早々に予想がつくような結末に至るまでの終盤の冗長さも酷い。序盤から中盤にかけて、ダゲレオタイプ撮影シーンをとっとと処理してしまい、「時間」の演出を放棄していた一方で、終盤、映画自体を停滞させるような退屈な光景に時間を無駄遣いするのが理解に苦しむ。

サイコ』っぽくシェード付き電球を揺らす演出も虚しい。序盤の、自然に開いたドアから漂う気配に圧されるように後退するカメラワークなどは好きだけど。

コンスタンス・ルソーって前田敦子に似てる。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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