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[コメント] 猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)(2017/米)

Warというより西部劇的復讐劇と監獄物という矮小さで、猿たちの建国神話としては弱い。天使的な少女アミア・ミラーは、作品の情緒的繊細さの全てを担う務めを見事に果たしているが、作品テーマ上の立ち位置がこれまた弱い。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







言葉と思考を人間から奪う感染症。ウディ・ハレルソン大佐は、人間が万物の霊長としての地位を保つために、人間的な情を切り捨て、「人間/非人間」を冷厳に隔て、巨大な壁による『進撃の巨人』的王国へと邁進する(トランプの不法移民対策の暗喩?)。シーザーたちは追跡劇の中で、大佐の居場所は「境界」だと知らされ、この言葉そのものが示唆的。彼の存在そのものが、「人間」の定義への巨大な問いかけを象徴するはず、なのだが、結局は、剃り上げた頭をこれ見よがしにアピールし、『地獄の黙示録』ごっこに興じるのみ。

大佐の隔離政策、差別主義に対置される少女が、囚われのシーザーを救いに現れた際に残していった人形は、大佐の手に渡って感染源となり、彼が自らの息子を殺してまで死守しようとしていた「人間/動物」の境界は破られる。シーザーが、妻子の仇である大佐に手を下さず、自決を選ばせたのは、情けをかけて、信念に殉じさせたともとれるが、大佐が行なってきた、猿たちや感染者たちに対する処刑への責任を取らせたとも思える。シーザーは、大佐から「感情的すぎるぞ」と批難されたその感情に任せた復讐ではなく、感情を切り離した理性そのものが孕んだ暴力を、大佐自身に味わわせたのではないか。

一方の少女は、猿たちの新天地で、彼らの仲間となるのだが……。オリジナル『猿の惑星』での人間奴隷化のことはさておいても、猿たちの中に一人ポツンと置かれた少女は、支配被支配を超えた世界の希望の証しになり得ていたのだろうか。そもそも彼女は、猿から学んだ手話を使ってコミュニケーションを果たしており、感染症で言葉と思考力が失われるという前提そのものが崩れている。大佐がやっていたことは何だったんだという話になるし、前日譚としても、『猿の惑星』へとどう接続するのかという疑問も湧く。

(評価:★3)

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