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[コメント] めぐり逢い(1957/米)

意外にも、エンパイアステートビルの存在は大した事はない。むしろ、一見すると軟派男なニッキーの祖母の存在が大きく、或る意味、この映画全体の方向を決定付けているとさえ言えるほど。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







やや古めかしいメロドラマ、というだけで終わってしまいかねない物語だが、ニッキーの祖母の存在が、作品に重要な深みを与えている。愛する夫の思い出に包まれた楽園のような邸宅で、彼の元に召される日を楽しみにしている祖母。テリーが「ずっとここに居たい」と心情を洩らすと、「ここは老人が思い出に耽る場所。若い人は外で思い出を作りなさい」とやんわり諭す。この描写によって、一生愛せる人を見つける事の幸福をテリーに実感させた事、加えてこの祖母がテリーに、一見するといい加減な男にしか見えないニッキーの、内面の悩みや葛藤を語った事、この二つが、この後テリーに芽生える恋愛感情に必然性を与えている。

「エンパイアステートビルでの再会の約束を交わす」という有名な部分だけは知っていたので、てっきり、何らかの障害があるにせよ、最後にはそこで二人は再会し、ドラマチックに幕が下りる、という話なのだと決めてかかっていた。なので、この映画の結末は結構意外だった。「自分の足で立てるようになってから、彼に会いに行く」というテリーの気持ちは、船上でニッキーが「半年後に、画家として妻を養える男になって迎えに行く」と、自立を約束した事に自分も応えようとする意味があったのかも知れない。そう考えれば、ニューヨークで再会した二人が妙に意地を張り合ってしまうのも、“相手に負担をかけ、依存してしまうような自分であっては、愛されるに値しない”、という真摯な想いの裏返しだと言える。

だからこそ、最後の、幸福な偶発事のように見える結末も、必然的なものだと言える。ニッキーは、テリーに「約束を破って悪かった」と、あたかも約束をすっぽかしたのは自分の方だったかのように、皮肉まじりに恨み言を言うが、自分が、記憶の中のテリーをモデルに描いた絵を、不幸な女性ファンに譲った話をしている途中で、部屋を訪ねた時の姿勢のまま、ソファに座り続けるテリーの不自然さに、フッと気づく。そうして奥の部屋に飾られてあるその絵を発見し、ハッピーエンド、となるわけだが、これはつまり、足が悪い事を隠して誤解を招いていたテリーの態度は、実はニッキーの事だけを思っての行為だった、という事だ。

ニッキーが、貧乏で足が悪いというファンの女性に同情して、絵を贈った行為は、つまりは、そこに描かれた思い出の中の女性であるテリーを、ニッキーが忘れようとした事を意味している筈。そして、売る気も手放す気も無かった絵を譲るという事は、愛する人が自分を愛してくれる事を諦め、自分の描いた絵が誰かに必要とされる事だけが、唯一つの生きる糧だと思うようになった、そんな心情を示しているようにも感じられた。これは裏返せば、それまで必死で絵を描き続けてきたであろう彼の努力もまた、ただ一心に、テリーと結ばれたい、という思いに導かれての事であり、それがあったからこそ、画家として自立できるまでになったのだ。

ニッキーもテリーも、互いに相手を思うからこそ、物質的(経済的)にも精神的にも、自分の足で立とうとするのだが、それが出来たのは、記憶の中の恋人との二人三脚があってこそ。そうした、或る意味では“弱さ”とも言える部分を、図らずも互いに相手に見せてしまうのが、あの最後の、ドアの向こうの一枚の絵の場面。そしてここから、一人心の中でしていた二人三脚が、本当に二人で行なう二人三脚になる。ニッキーが絵を見つける場面では、絵は鏡に映る形で画面に入る。これは、テリーがエンパイアステートビルを見上げる場面で、ドアのガラスにビルが映り込む形になっていた事と対応している筈。鏡に映る、というのは、イメージの投影、記憶の中の光景、思い出の暗喩だろう。

また、この場面でも祖母の存在が大きい。彼女が生前、テリーに譲りたいと言っていたショール。これを手渡すという口実が無ければ、ニッキーは彼女に会いに行き辛かったのではないか。更に、彼が描き、テリーの部屋の奥に隠されている絵は、ショールを羽織ったテリーの姿なのだ。用件が済み、帰りかけたニッキーはふと、ショールを身に着けたテリーを見、「君のそんな姿を絵に描いたんだ」と、例の女性ファンの話を語りだす…。この絵の構図も、ニッキーの祖母の家のチャペルで、テリーがマリア像に祈っていた姿を、ニッキーの目線から見た印象が元になっているようにも見える。この時の、テリーとニッキーが並んで祈りを捧げる場面は、二人が真剣に相手の事を意識し始める転機になっていたと思う。

ただ、一つどうしても指摘せざるを得ない難点は、「働いて金を稼いだ事が無い」と言うニッキーが、画家として食い扶持を稼ぐ為に苦労する描写が少なすぎる点。テリーが歌手として活動する場面も少ないが、彼女の方は過去に歌手として働いていた経験があったし、事故後に頑張って働いている描写が多いので特に不足は無いと思うのだが。テリーが歌手として舞台に立つ映像が現れた時、彼女が被っているスカーフは、船上でニッキーと約束を交わした時に着けていた緑のスカーフと同じである。この事で、彼女がニッキーとの約束を胸に抱いて歌っていた事が暗示されている。

逆に、船上でのコメディ・タッチのエピソードが多すぎるのは、無駄に思える。これを削って、例えば、ニッキーが食うに困って、静物画のモチーフに使っている林檎を食べるかどうかで悩むとか、同情した食堂の主人か誰に助けられる場面でもあれば良かった。祖母に「あの子は何でも簡単に手に入るから、満たされる事が無い」と、心の底を見抜かれていた彼には、もう少し試練に耐える姿が必要だった筈。更には、「批評家としての眼もあるから、描く立場と両立させる事が難しい」という事も言われていたのだから、何か創作上の悩みに苦しむ描写もあって然るべきだっただろう。

(評価:★4)

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