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[コメント] 星の子(2020/日)

所謂「宗教2世」の話だが、親の過剰な介入で破壊される子の人生というよりは、少し変わった信仰を持つ家族を付かず離れずで描く。それはいいんだが、御布施による困窮も台詞で語られるのみ。何より、ユーモアの欠如によって損なわれる豊かさが惜しい。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







林家の信仰が、世の常識的な目からは奇異なものとして見られ、敵意すら向けられるというのが、ちひろ(芦田愛菜)を悩ませるのだが、その悩みの大きな原因となる、憧れのイケメン・南先生(岡田将生)もまた、実はちひろと表裏だと言えないか。彼もまた、イケメンという印象だけが先行して、他人から勝手なイメージを抱かれることに悩まされているのではないか。この映画は彼を嫌な奴として扱うが、彼自身が自分の容姿を利用したり鼻にかけたりしていたかというと、そうでもない。彼はテニス部の指導も真面目に熱心に取り組みたいと思っていたのかもしれない。だが女子生徒らは彼目当てで入部しようとする。羨ましい立場だと思うべきか?だが、女子にモテるせいで、学校に居残っていたちひろを車で送ったのが曲解され、妙な噂が広まってしまう。ちひろ以前にも、女子生徒に手を出していると噂されていたが、それも事実なのかどうか、こうなってみると疑わしい。

その、ちひろが車で送ってもらうシーンでは、家の近くで彼女の両親が、宇宙の水を注いだタオルを頭に乗せている場に出くわしてしまう。緑の服を着て、あとから新村くん(田村飛呂人)に河童呼ばわりされてしまう両親の姿はやはり滑稽で、このシーンには笑ってしまったのだが、しかし映画は、とても真面目一辺倒で撮られていて、笑うことをまったく許してくれない雰囲気だ。そこが大森立嗣の演出の貧しさではないか?なにも自分は、林夫婦を嗤いたいわけではない。だが、何も知らない南が、あのような光景に遭遇し、彼らを不審者扱いし、「完全に狂ってるな」と呟くのは、ちひろにとってはショッキングな出来事ではあるにしても、そのことも含めて、人物間の様々なギャップが醸し出すユーモアを感じてはいけないだろうか?

そうしたギャップへの感受性が乏しいから、イケメンであることの悩みを抱えていそうな南も、ただの嫌みな男のように描かれてしまっているのではないか。雄三おじさん(大友康平)も専ら、強引で無神経な男に見えてしまっている。彼が水を密かに水道水と入れ替えていて、家族がヒステリックに怒るシーンも、そこに一抹のユーモアを求めたくなる。ただひたすら深刻な、刃傷沙汰寸前の、ほとんど陰惨でさえあるシーンとしてのみ演出されているのが不満。

ちひろは南の授業中、熱心に彼の顔を絵に描いていたが、このいかにも少女らしい行為も、南からすれば、俺がいくら熱心に授業をしてもこいつは俺の顔しか見ていない、ということではないか。そのことと、またも噂を立てられたことへの苛立ちが、林家の信仰への罵倒も含んだ怒声となったのではないか。皆の前で激しく叱責することで、噂を吹き飛ばそうという焦りもあったのではないか。或いは、生徒の両親を不審者扱いしてしまったことに、彼自身動揺していたのかもしれない。映画を観終えたあとから考えると色々と想像が膨らむのだが、劇中では、そうした陰影を持った一個人として南を切り取ろうという姿勢が欠けていた。またこのシーンにしても、やはり一抹のユーモアが欲しいところ。ちひろがそれまでに授業中ずっと似顔絵ばかり描いているシーンが繰り返されていたので、観客は、バレるんじゃないか、怒られるんじゃないかと思いながら見守ることになる。これを溜めとして活かして、ちひろと南の気持ちのズレを笑いに変換してくれてもいいじゃないか。ここで級友が「林さんが描いているのは先生の顔じゃありません。エドワード・ファーロングという外国の俳優で…」と弁護してくれて、南が「誰でもいいんだよ!」とキレるやりとりに、ひと笑い求めてもいいじゃないか。

ちひろは、突然の叱責により、憧れの先生に絵のことも信仰のことも両親のことも全否定されて晒し者のようなことになるが、そのショックのあと、なべちゃん(新音)に、彼女が付き合っている新村くんと結婚していいかと訊ねて断られる。この冗談は、ちひろのメンクイというイケメン信仰の棄教がなされた瞬間だと言えないか。絶対と思えた価値観を手放す時が訪れることもあるのだ。新村くんはイケメンではないにしても、性格的にはなかなかいい奴なのだ。

教団の施設でちひろが昇子さん(黒木華)に呼び止められ、「迷っているのね」と言われる台詞は、信仰の揺らぎという心の迷いと、両親がどこにいるのか分からずにいる状況とのダブルミーニングに思える。「あなたがここに居るのは、あなたの意志ではないのよ」という言葉も、昇子さんは宇宙の意志とやらを語っているのだろうけど、ちひろ、という以上に観客にとっては、ちひろの意志ではなく両親の意志なのだという意味に聞こえる。両親が見つからないちひろは、海路さん(高良健吾)の焼きそばを、まったく信仰心の無いオッサンまで美味そうに食べている光景を、所在無さげな表情で見つめる。焼きそば作ってるよという声で皆が喜んで出て行くシーンでも、ちひろはその歓喜に同調せず、あとからついて行っていた。食べかけのおにぎりが放置されているのをわざわざカットに収めているのも、好物の焼きそばすら虚しくなっていることを感じさせる。両親を探すシーンでは、あちこち映し出される立派な施設も、ちひろにとっての大事な存在(両親)の不在によって、ただのがらんどうでしかない。

両親が見つけられないまま部屋に戻ったちひろに、同部屋の少女は、「待っていた方がいいよ。どっちもが探していたら行き違いになって、一生会えなくなるよ」と諭す。この「待つ」という行為は、両親と三人で流れ星を待つシーンにつながるが、ちひろは大浴場が閉まるからと時間を気にしている。つまり関心は地上にある。父親(永瀬正敏)の「時間なんて気にしなくていいんだ」という超俗的な態度とのギャップ。彼の「家族一緒に見なきゃ意味がない」という言葉に応えるように流れ星が到来するのを待たずに映画は終わる。一見すると、家族揃って同じ方向を見ているようでいて、決定的な断絶すら感じ取れる。そもそもこの場には、ちひろの姉(蒔田彩珠)はいない。家族のもとに戻ってくる気配すらない。家族一緒にいないのだから、流れ星が訪れたところで意味はないのかもしれない。平和なシーンのようでいて、実は決定的な崩壊(家族或いは信仰の)の予兆すら感じてしまう。それは崩壊でもあるが、覚醒、解放でもあるのかもしれない。

だが、そんなほろ苦い結末とも思えるラストシーンにも、特に何も感じない。ちひろの両親探しからずっと感情が平坦なままに、ぷっつりと幕が下りた。あの両親は、冒頭で赤ん坊のちひろを心配するシーンのあとには、妙な信仰に心を奪われた人たちという以上の存在ではなくなってしまう。観客にとってはほとんど、意志を失ったゾンビに等しい。はっきり言って、少々薄気味悪い印象が先行する。そこもシリアス一辺倒の演出の弊害だ。そんな両親をちひろが教団施設で不安げに探していても、こちらの心には何も響いてこない。冗長で退屈なシーンと感じてしまう。この映画は繊細なようでいて、実は、ちひろと両親のあいだの愛情という、肝心のものが抜けている。両親の描写によらず、芦田の演技にすべて委ねるのなら、もっと彼女に対して負荷をかける必要があったはず。

大森監督だからこその美しさが全編に見られたとは言えるが、一方でこの物語から大きなものを取りこぼしていたように思えるのが勿体ない。ユーモアの欠如という一点に限っても、三木聡辺りが監督と脚本を担っていたらどのようになったのか、見てみたかった。『美しい星』が思い出される吉田大八でもいいが、家族と信仰絡みの物語で、タイトルに「星」は、さすがに屋上屋を架すようなものか?

それと、ちひろは熱心に絵を描いていたが、例の河童事件(とでも呼んでおこう)で南先生への思いはすでに薄れたようで、先生の絵でしょ、と級友に指摘されても、エドワード・ファーロングの絵だと言う。もう要らないから、完成したら彼女に渡すと言う。つまり、先生への想いは薄れても、絵を完成させることにはこだわる。絵がちひろにとっての救いになることが暗示されているようにも見えるのだが(その名も「いわさきちひろ」に因んでいるのかもしれない)、それなら絵に喜びを感じているのが伝わる描写が欲しい。唐突なアニメーション・シーンでそれを表現したつもりなのだとしたら、ピントがずれている。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ぽんしゅう[*]

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