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[コメント] キャラクター(2021/日)

マンガのように陰影がパキッとしていて、色彩もクッキリハッキリと色鮮やかな映像は見ていられたが、「キャラクター」というテーマに関しては表面を撫ぜた程度で、凡百のスリラーの一つでしかない。Fukase演じる殺人鬼より不気味なのが、
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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菅田将暉の父親(橋爪淳)の再婚相手(小島聖)とその連れ子(見上愛)。終盤、菅田は、彼のマンガを再現している殺人鬼をおびき出すために、自分と父親一家を殺人鬼が惨殺する話を発表するのだが、これがもう怖い。自分を囮にするのは、自らの罪と向かい合うという意味では理解できるが、父親一家を丸ごと巻き込むというのが異常。しかもそれを異常な行動として描いていないのがまず不気味。しかもこの家族が、ニコニコ笑って受け入れるさまは更に不気味。「幸せな家族」を、皆揃って「キャラクター」として演じているように見え、図らずも「キャラクター」の不気味さが最も感じられるシーンとなっているが、脚本と演出上の事故でしかない。小島が平静な顔して菅田に、「なにかあったら相談してね、って言ったでしょ」と微笑むのを見せられても、菩薩のような人だなぁと感動するのは難しい。ちょっと頭がおかしい人たちだとしか思えない。不安の影すら見えないんだから。父親が若干緊張している程度。女二人は感情が死滅しているんだろうか。

主人公・菅田は常に孤独。冒頭、自宅でマンガを描いているのを窓の外から捉えたカットでは、周りの窓に人気がない。ラスト近く、彼が入院している病院の窓を外から捉えた同様の構図のカットでもそう。殺人鬼と出会ったことで人気マンガ家になってからはアシスタントを雇う側になっているが、デジタルで描いているのでアシスタントもリモートであり、周りに誰もいない。自分の父親とその家族に挨拶に行くシーンでも、むしろ妻(高畑充希)の方がその場に馴染んでいて、「怖いマンガ」を描いている彼は所在なさげ。そして編集者からの電話を受けてその席を立つ。小栗旬の葬儀でも、記帳しているところを刑事(中村獅童)に見つかり、「危険だから外に出ないでと言ったでしょう」と、参列者たちに加わることもできないままに帰される。

Fukaseと遭遇する前の菅田が、編集部に持ち込んだマンガを突き返され、マンガ界から足を洗うと決意し、アシスタントとしてついていたマンガ家から、お前一人くらい食わせてやるよと言われても拒むのは、与えられていた居場所を自ら捨てたようにも見える。だが、このマンガ家が深夜に一軒家のスケッチを要求したのを受けて、菅田が出て行くと、そのマンガ家は他のアシスタントたちに、「アイツ、いい奴だろ。だからダメなんだ」と言い放つ。いい奴であり、主張がない、「キャラクター」の薄い奴。殺人鬼Fukaseは、菅田にマンガのキャラのヒントを与えた存在として描かれているが、実は菅田の、自分も突出した人間に、つまりは「キャラクター」になりたいという欲求を叶えた存在でもあるのかもしれない。そもそも、本当にただの「いい奴」なら、なぜ残酷なスリラーを描きたがるのか。

自らの脳内そのものである部屋に、資料となる写真や地図を貼りつけたり吊るしたりしてそこに籠っている菅田と殺人鬼は、互いの分身となっている。この種の光景は、ミステリーやスリラーの類いでよく見かけるが、捜査する側の部屋であったり、犯罪者が過去の犯行を記録し、次の計画を練る部屋であったりする。この映画の場合、一応は善玉の側であるはずの菅田が言わば「計画」を練り、犯罪者の側がそれを追うという倒錯したことになっているのが妙味。Fukaseの役名も「両角(もろづみ)」と、分身性を暗示している。

菅田のマンガの最終回では、犠牲者となったマンガ家の上に殺人鬼が覆い被さっているコマが描かれていたが、現実には、マンガ家・菅田がFukaseの上に覆いかぶさって相手を刺す形でトレースされる。Fukaseに勝利したというよりは、菅田自身が殺人者となりかけて、刑事(中村獅童)に撃たれて倒れている。このとき菅田が着ていた防刃ベストでは、防弾は無理なんじゃないのか。それに、こんなベストすでに脱いでいたかもしれないのに、撃つ判断をした刑事もどうかと思う。―—などという現実的な疑問はさておき、「いい奴」菅田の異常性や猟奇性が描かれないままに、殺人鬼との(身体的、象徴的な)重なり合いを見せられても、人格(キャラクター)の交換の倒錯性や危うさが感じられず、なんだかベタな結末だなとしか思えない。

Fukaseが育ったカルト集団の事件の資料を菅田が持っていて、それをマンガに使ったというのは、要はこの、「四人家族は幸せの象徴」と説く集団こそがオリジナルであって、菅田もFukaseも互いをコピーし合うシミュラークルの世界が繰り広げられていたということか。もう一つ、オリジナルと呼び得るのは、松田洋治演じる殺人者。Fukaseは、自分は松田のファンだったが、逆に松田の方が自分のファンになったと言い、「アシスタント」として松田を雇い、マンガには描かれていなかったであろう小栗殺しを実行させる。この松田は、Fukaseの最初の犯行を、自分がやったと自白していた。だが、Fukaseのこの犯行は、松田の犯行をファンとして模倣したものではなかったのか。この時点で、オリジナルと模倣は、卵が先か鶏かという関係になる。しかもこの松田にしても、「記憶がない」と、まるで『CURE』の間宮のようなカオナシ人間ぶりを示す。

だが、そうした面白げな構図が仕掛けられているのも関わらず、カルト集団については、そんな集団がおりましたよと言及されるだけであり、松田はその辺の浮浪者のような薄い存在感。この松田が捕まらないままに、高畑を彼が見つめているかのような思わせぶりのカットを挿んで、物語は閉じ、エンドロールの終わりに刃物を振るうような音が聞こえるのだが、ここで松田の存在が不気味に尾を引くようなことにはならず、いかにもスリラーらしい、不穏な結末を演出してみせるための小道具として存在しただけにしか思えない。本来なら、自分を模倣したようでもあるFukaseの模倣者に自らがなるという、或る種、自己愛的な倒錯性や、菅田のマンガの模倣でもある殺意が、菅田自身の家族に向かうという倒錯性で、この作品の抱える複雑な構造を、尻尾まで餡のつまったタイ焼き状態にしてくれる、エッジの効いた演出になり得たはずなのに。松田を、みすぼらしいただの影のような存在にしたのは、実物の影のような存在こそが恐ろしいのだというメッセージ性でも持たせようとしたのかもしれないが、そうした絶妙な恐怖を描くほどの技量がない。

菅田がFukaseの犯行現場に遭遇し、警察に保護される一連の主観カットは、信じがたい現実の渦中に置かれた彼の動揺が、幻覚的に迫ってきて、スリラーの導入部としては秀逸。このシーンで、血に濡れた手を見つめるカットが、Fukaseの返り血に染まった手を見つめるカットとして反復されていたら、とも思う。全体として、このシーンのような、物凄いことに巻き込まれているという迫る感じが弱く、菅田を一歩離れて観察しているような描きかたなのが物足りない。そのことも含めて、刑事二人の「キャラクター」を立てるより他に、もっとやるべきことがあっただろう、と感じる。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)死ぬまでシネマ[*] クワドラAS けにろん[*]

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