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[コメント] 機動警察パトレイバー2 the Movie(1993/日)

この映画の真のテーマは、恐らく、戦争でも都市でもない。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭のレイバーのシミュレーション場面で、野明のモニターに突然現れる猫。すぐにレイバーの脚を止める野明。これは、急に何かが飛び出した際の、操縦者の咄嗟の判断力、或いは機体の反応の検査なのだろうけど、後の、動物たちが絡む場面と併せて見れば、その訴えている所が見えてくる。最も印象的なのは、落下した飛行船からのガス噴射の場面。ガスマスクで完全防備した自衛隊員が、置き去りにされた犬に吠え掛かられて目を震わせる場面は、それより前の箇所で、傷心の南雲が榊の家で、犬の優しげな目で見つめられる場面と、見事なコントラストを成している。また、この飛行船落下を招く場面では、狙撃の邪魔になるカラスが、単なる障害物として撃ち落とされている。そして、焦った狙撃手が吐く言葉――「冗談じゃない、ポート以外、傷一つ付けちゃいないぞ!」。

忘れられた存在は動物だけではない。荒川の言う「不正義の平和」は、政治的に忘れ去られる人間たちを生む。戒厳令発動の場面に、黒人や中東出身者と思しき外国人が描かれるのは、ささやかな政治的表現なのだろう。その場面で野明が、外国人たちと(なぜか)一緒に暮らしている風な情景が短く挿入されるのも、冒頭での彼女の振る舞いと関連付けて見れば、意味深長に見える。全ての生き物を、方舟で救う者としての‘ノア’。そして、人が自ら築いたシステムによって混乱する傍らで、別の生を営む動物たち。動物という、人間とは別箇の身体性を対置する事で、押井監督独自の都市批評を行なっているのだろう。

動物と言えば、鳥は戦争、或いは神の罰を暗示する。鳥の甲高い鳴き声と、戦闘機のミサイル発射音は、同じ音を発している。メインタイトル直前の、『地獄の黙示録』の引用的場面では、鳥の声が天の啓示のように響き渡る(DVD化に際しての、再収録の音声ではより強調的)。片目が不自由な荒川の鋭角的な顔は、鳥のような容貌だ(荒川の目は、二二六事件の首謀者とされた北一輝が右目を失明していたのに倣ったのだろう。時計の日付が変わる場面を見ると、‘状況’開始は二月二六日。事件当夜に雪が降っていたのも同じ)。

対して、人に寄り添う目線の犬。監督は阪神大震災の報道について「ヘリコプターの視角じゃなくて、やはり地べたをはいまわっている犬の目がほしかった」と語っていた(≪文藝≫95年夏季号)。危険への警告としての、犬の声。監督曰く「『パトレイバー』は傍観者の目線でつくった映画なので、当事者の目でつくってみたかった」(前掲)。本作の後の『攻殻』では、当事者自身が鳥=神となる。

人間とは異なる身体性という意味では、動物の他にもう一つ、機械を挙げる必要がある。最新型レイバーに乗った遊馬は「腹や背に眼があるみたいで気持ち悪い」と言う。だが情報化には肉眼では追いつけない。荒川が車中で呟く「走ることで自らは限りなく静止に近づき、世界が動き始める」は、ヴィークルとメディアの、身体の拡張(マクルーハン)としての類縁性、それが実現する、不動の動者=神の視点の暗喩だ。

劇中に頻出する‘状況’という言葉は、学生運動の指導書の一つ≪スペクタクルの社会≫の著者ドゥボールの‘状況主義’の引用だろう。押井氏も、当時の影響を受けた筈。モニターに見入る登場人物の呆けたような顔、観客へ逆反射する柘植の眼鏡、モニターの向こうに戦争を押しやり、敵と味方を識別困難にした日本の、自己免疫疾患としての戦争状況。「スクリーンの背後に己れの生を強制的に追放させられてしまった観客の意識」(ドゥボール)が告発される。

幻の空爆の場面での、戦闘機の名‘ウィザード’‘プリースト’‘ワイバーン’は、ゲーム≪ウィザードリィ≫からの借用で、シミュレーション或いはシミュラークル(模造品)としての戦争を暗示する。あの緊迫した一連の場面の中で、一瞬、ワイバーンと思しき戦闘機が飛行場の上を通過する場面があるが、ワイバーンは三機である筈なのに、通過したのは二機。モニター上の状況と、現実の状況のズレ。柘植はそれを利用し、国家機関の中枢に、相互不信の種を撒くのだ。幻の空爆は、自衛隊機である筈のワイバーンが、速やかに排除すべき‘敵’と判定され、その‘敵’と誤認されたウィザードが撃墜されかけた所で終わる。これは、実際の戦場から遠く離れた場所から通信されてきた命令によって、部下を見殺しにされた柘植の、痛烈な皮肉と復讐の意思を示す行為だったと言える。最後、虚空に取り残されたウィザードが「指示を乞う」と繰り返す様が印象的。

戦闘機の搭乗員が、管制室の指示通りに行動するのは、ちょうど、手足が脳の命令どおりに動くのと同じである。押井氏が強い影響を受けたと思われる、思想家ポール・ヴィリリオは、その著書≪戦争と映画≫の中で、哲学者モーリス・メルロ=ポンティの、次のような言葉を引用している――「国家の主体が何かを問う事は、ちょうど、知覚の主体が何であるかを問うのと同じ問題となるのである」。神経網のように張り巡らされた通信網が、その中の一部品としての人間を、より間接的な経験にしか触れる事の出来ない状況へと追いやっていく。それは、野明と遊馬が最新型のレイバーの乗り心地について、身体的な違和感を洩らす事と、深い所で繋がっている。巨大な身体としての、都市。その中で、敵とは誰か。柘植、米国、権力の上層部、「何一つしない神様」…?

劇中で印象的に引用される聖書の一節、「一家に五人あらば三人は二人に、二人は三人に分かれて争わん」。東京上空を飛ぶ飛行船、空自のBADGEシステムを混乱させるワイバーン、‘状況’を開始する武装ヘリ、行く手を遮る軍事用レイバー…、全て、冒頭のPKO活動中に見殺しにされる柘植の部下のレイバーと同じ、三機。劇中の‘戦争’は、亡霊の復讐なのだ。テロ決行の際、柘植は冒頭のレイバー隊を指揮していた場面と同じように、次のように合図を送る。「‘ゴング・ゼロ’より各機へ。時間だ、状況を開始せよ」。

「隊長」と叫んで死ぬ柘植の部下たちと、南雲と後藤を「隊長」と呼んで集まる野明たちは、同じく日本の国家機関に所属する人間たちであり、隊員同士の信頼関係で結ばれているという意味から見ても、同じ立場の人間たちだった筈。それが、結果的には柘植と後藤は互いに対決し合う陣営に分かれる事になるのが皮肉だ。テロ決行に先立って、電話で南雲を呼び出し、橋の下で逢う柘植。その後、この時に通信手段に使われた電話も、最後の逢瀬となる筈だった橋も、共に破壊される。テロによって破壊される通信網と交通網は、人が如何にコミュニケーションに依存して生きているかという事と、都市はそうした通信と交通の集積体としてしか成り立たないのだ、という事を露呈させる。

南雲が柘植と逢う時、いつもは後ろで結えられている彼女の髪が解かれる。それも、意図的ではなく、偶然に。彼にだけ素顔を見せる彼女を、こんな風にさり気なく、繊細に描いている。また、後藤とシゲの、前作に続いての、見事な連携プレー。それが確認できるのは、自衛隊が出動した夜に、皆がテンヤワンヤになっている中、後藤が「シゲさーん。シゲさんってば」と彼を呼んで何か話している姿が、ほんの少し映るだけ。他にも、南雲が柘植の電話を受けた時、密かにその会話を盗み聞きしている、彼女の母親。その描写も、南雲が会話を終えた頃、母が静かに受話器を置く動作と音が一瞬確認できるだけ。それでも、この場面に先立って、隊長室で南雲が電話で部長と話しているのを、後藤が部屋のもう一つの電話を取って聞く場面があった事で、短い描写でも、母親の行動の意味が読み取れるようになっている。それに、この母親が南雲との間に、普段は親密な関係を築けていない事が、二人の会話の仕方から、それとはなしに見えている。だからこそ、母が後藤と同じような行動をとって、南雲の身を案じる姿が印象に残る。更に細かい事を言えば、ベイブリッジ爆破の直前、車中の南雲が、通行規制を行なっている警察官と通話した際の、「南雲隊長ですね。研修でお世話になった本橋です」という会話。こうした、互いに細い糸で繋がりあう人々の姿が、この作品の様々な所に表れている。その最たるものが、旧第二小隊の面子が集う場面。そんな本作の真のテーマは、人と人とのコミュニケーションだと言える。その断絶こそが‘敵’なのだ。

曖昧に‘三機’が揃う(?)ラストは、深読みすれば、意味深長。飛行船は一機落とされて二機しか浮かんでいないが、南雲や柘植らを乗せたヘリを合わせれば、三機になる。「一家に三人あらば」…。

因みに本作は絶版した本≪ワードマップ 戦争≫からの引用が多く(「戦争なんてとっくに始まっている」等)、元ネタ的な印象。乞う復刊。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)[*] DSCH[*] 浅草12階の幽霊[*]

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