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[コメント] ジュラシック・パーク(1993/米)

テクノロジー(分子生物学)によって恐竜を復活させる物語と、テクノロジー(機械装置、CG等)によって生きた恐竜を見せるということ。「誰もが見たいものを見せる」という、映画の原初的な夢と欲望。恐竜への畏れと同居するノスタルジー。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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冒頭の、揺れる草叢と、作業員たちの緊張した面持ち、檻から僅かに覗く恐竜の姿など、見せずに暗示することで観客の想像力に訴えるスピルバーグ一流の演出が光る。透明なコップに入れられた水や、ティラノサウルスの足跡の水溜りに広がる波紋と、ズシンと響く足音によって、恐竜の大きさを想像させるサスペンス演出。また、ビジターセンターで一息ついていたレックス(アリアナ・リチャーズ)が、弟ティム(ジョゼフ・マゼロ)の背後の恐竜に気づいて硬直するシーンでは、彼女が手にするスプーンに乗ったゼリーの震えが、彼女の恐怖を強調する。これも「プルプル震えるもの」の活用という意味で、水面の波紋の演出と同系列。

また、レックスとティムが厨房でヴェロキラプトルから身を隠すシーンでの、吊られた調理器具が音を立てる緊張感。こうした、ちょっとした小道具なり細部によって、観客の想像力を刺激してこそ、映画にリアリティが生まれる。何でもかんでもCGで作り上げられるかのような思い上がりをしてしまうと、映画がどれほど重量感や実在感を致命的に欠いてしまうかは、『スピード・レーサー』や紀里谷和明の映画を観ればよく分かるというものだ。

グラント(サム・ニール)が、樹に引っかかった車からティムを救出するシーンや、グラントと子供たちが高圧電線の網を昇るシーンなど、恐竜が出ていなくとも、上方を見上げるショットが工夫されている。ネドリー(ウェイン・ナイト)が立ち往生した車を何とかしようとするシーンでも、やや控えめに高低差が表れているが、彼が相手にすることになるディロフォサウルスも、その小さな体で幾分か安心させたところで毒液噴射という厭な攻撃をしてくる恐竜。それによって殺されるネドリー自身が厭な奴だという形で、娯楽作としてのバランスに配慮が為されている印象。

かつて『ジョーズ』で鮫を一方的に悪役に仕立て上げてしまった反省なのか知らないが、トリケラトプスの看護シーンや、グラントが、恐竜を恐れ嫌悪するレックスに対し「肉食が本能なんだ」と答えたり、草食のブラキオサウルスと触れ合うシーンがあったり(キリンへの草やりのような光景)、最後にヴェロキラプトルにあわや襲われるかと思ったところでティラノサウルスが(結果的には)助けてくれたりと、恐竜へのフォローがあちこちに見られる。ティラノにとっては人間もヴェロキラプトルも同じく餌に過ぎないのであり、人間に対して特に殺意や悪意を抱いているわけではない。また、森から長い首を伸ばすブラキオサウルスと歌でコミュニケートするシーンは、『未知との遭遇』を想起させる。スピルバーグはきっと、音や光といったシンプルなものによるコミュニケーションを信じているのだろう。

グラントとエリー(ローラ・ダーン)が、恐竜と始めて遭遇するシーンでの、驚喜のあまり息も出来ないような様子。恐竜とのファースト・コンタクトを味わった後、ハモンド社長(リチャード・アッテンボロー)に助言を求められた二人は、科学者らしい冷静さを取り戻して、安全性への懸念を口にするが、二度目のツアーでは恐竜が出て来ないことに痺れを切らして車の外に勝手に出てしまう始末。子供嫌いのグラントが、「子供の頃からいちばん好きだった恐竜だ」と、トリケラトプスの呼吸で上下する体の感触に浸る幸福そうな様子と、それを見つめて微笑むレックス。本格的に恐竜スリラー状態と化してなおも、グラントが姉弟とパーク内を行くシークェンス中、マルコム(ジェフ・ゴールドブラム)の懸念通りに恐竜が卵を産んでいるのを発見するシーンで、グラントの顔には笑みが湛えられている。恐竜が人間の管理を外れて勝手に繁殖しているという、危険な事実であるにも関わらず。やはり、恐竜と共にこの地上に生きることの興奮と幸福は、彼を捕えて離さないのだ。モンスター・パニック物といっても、エイリアンの卵を発見するシーンのおぞましさとは、まるで意味が違う。恐怖と同居する、甘いノスタルジー。

恐竜の巨大さと、映画館のスクリーンの大きさや、ズシンと響く音響装置。テレビで観てもつまらないわけではないが、やはり、同じ映像が映っていはするけれど、体験としては全く別物という印象がある。天井の金網の上から落ちかけたレックスがあわや、下から襲いかかるヴェロキラプトルの牙にかかりそうになった瞬間、観客皆が「うわっ」と退いた直後に湧いた安堵の笑声。ジョルジュ・メリエス流の、映像トリックで未知の世界を見せるアプローチのこの映画だが、スクリーンを越えて観客の方へ被写体が迫る驚きを味わわせるという点では、『列車の到着』の原初的な驚きを実現してくれたとも言える。また、上述のシーンでヴェロキラプトルが金網越しの照明を受けているカットは、その体表を無数の無機質な光の粒が彩ることで、恐竜の立体的な存在感を演出し得ている。

スクリーンを越えて迫る、かのように感じさせる恐竜。ビジターセンターでハモンドが一行にジュラシック・パークの解説ビデオを見せるシーンでは、彼はスクリーン内の自分と会話し、自分の分身から血液を採取するというパフォーマンスによって、スクリーンを越境してみせる。ビデオ内にも、研究者がバーチャル・リアリティ装置を身につけて、手で触れるようにしてDNAの欠落部分を補う作業をしている場面がある。更には、座席が回転してガラス越しに研究員たちの作業風景が現れると、弁護士(マーティーン・フェレロ)は「あれはロボット?」などと言い、本物と人工物の区別が曖昧になっている。だからこそ、孫たちまで危険に晒してしまい傷心のハモンドが、蚤のサーカスから身を立てた経歴をエリーに語りつつ「これを作ったと誇れるもの、手で触れることの出来るものが作りたかった」と心情を吐露するシーンは、何とも切ない。

巨大な脅威に追い回されるという点では、『激突!』や『ジョーズ』、後の『宇宙戦争』などと同系列の作品ではあるが、本作の「恐竜」は、単なる脅威ではなく、或る意味ではE.T.的な、ロマンチックな存在でもある。そのことは、恐竜復活のプロデューサーたるハモンドのキャラクターにもよく現れている。彼の登場シーンでは、ヘリのプロペラによる強風によって発掘現場を荒らしたり、勝手にシャンパンを開けて笑顔を振りまいたり、陽気なハッピーさと傍迷惑との同時襲来として登場するのだが、それはまさに、ジュラシック・パークそのものでもある。

ヘリに乗ってジュラシック・パークを訪れ、ビジターセンターにまず入った一行が、ビジターセンターでの最後のピンチを乗り越え、ヘリに乗って脱出するラストは、その円環構造によって、ジュラシック・パークそのものが、ひと時の夢であったかのように、愉しい悪夢の後のような甘い寂寥感を漂わす。ラストのティラノの登場がピンチの終了であったことからしても、結局人間たちは恐竜の脅威に対処し得ず、恐竜同士の食い合う場所に邪魔したせいで恐ろしい目に遭って、逃げ出しただけなのだ。最後のティラノの雄姿と、そこに落ちかかる横断幕。書かれてあるのは「WHEN DINOSAURS RULED THE EARTH(恐竜が地球を統治した時)」だ(この横断幕も、ちゃんと左側から文字が読めるように落ちてくる)。

それにしても、デヴィッド・リンチの闇や魔術的な光から逃れ、屋外の陽光の下にあるローラ・ダーンは、何と健康的なのか。ちょっと驚かされる。

(評価:★4)

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