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[コメント] 少女ムシェット(1967/仏)

バルタザールどこへ行く』が「無為」の受難だとすれば、これは「反抗」の受難とでも呼ぶべきか。もとより言葉を持たない驢馬と違い、その沈黙ないし拒絶の言葉による断絶が、少女の「反抗」の眼差しの奥に在るものへと観客を引き込む。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







学校の前の、坂になった草叢に隠れて、同級生の少女に泥を投げつけるムシェット。このシーンでムシェットと少女たちは別々のカットに存在し、唯一のコミュニケーション(?)は泥の塊りだけ。これらの画に於ける距離感、ムシェットと世界の隔絶。そして最後にムシェットは坂を転がって池に身を投じる。「皆のこと嫌いだから騙してやる」と、「愛人」になった男のために偽証しようと目論んでいたムシェットだが、男が犯したと思い込んでいた殺人自体が起こっていなかったことで、世界に対して身を隠し反抗する場が失われる。冒頭のカットで「子どもたちが心配で死ねないわ」と呟いていた母の死によってその子ムシェットも死へと逃亡する。ムシェットは、父からは「その目は何だ。昔はいい子だったのに」、近所の女からは「その傷は何?ふしだらな」と、単に「見る/見られる」関係が既にムシェットの居場所を奪う。ムシェットの存在感は(『バルタザールどこへ行く』の驢馬がそうだったように)、その「目」に宿る。バルタザールの目が、一切から後退し自らの鈍重さのうちに閉じこもった純粋さとしての目であったのに対し、ムシェットは、眼差す対象を刺す目だ。

それにしても、ラスト・カットの、池の揺れる水面、カットの終わりの方で、揺れの様子が不自然。カットを長くもたせるために、同じ揺れが繰り返されているのでは?あれだけ、何の手も加えない生(き)の映像を見せてくれていたのに、最後の最後にこれは残念。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ぽんしゅう[*]

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