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[コメント] ラルジャン(1983/スイス=仏)

結局、容赦ない非人間性に徹するこの演出の極限の簡潔さに「峻酷」「冷厳」「苛烈」等々の畏れを覚えるには、観客自身の人間的な眼差しが前提になる。僕のように非人間的な観客には、機械人形の所作でも眺めているような無関心の眼差ししか保持できない。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ブレッソンの意図通りに台詞を話し動作を行なう従順で無表情な人間たち。彼が、自身の用いる素人役者を指して云う「モデル」というものは、感情移入によって内側から人物に仮初の生を与えるという意味での通常の演技と異なり、シミュレーション乃至はデモンストレーションとしての言葉と行動を「演じて」いることの異化効果、ズレによって、なまな肉体的存在をフィルムに焼きつける。だがそれは、フィルム上の人物がブレッソンの計画をなぞっているだけだということが見えた途端に生じてしまう、「存在」の無化と紙一重でもある。一凡人の不幸が、昆虫の観察日記のような淡々とした視点で描かれるこの作品は、凄惨というよりは単に退屈に感じられてしまう。

主人公を匿う老婦人が無表情に語る「神の赦し」になど一片の重みも感じられないし、むしろそれが演出家の意図かとも思えるくらいだ(かの中沢新一さん(『幸福の無数の断片』所収「原初の光によって撮られた映画」)はこの「赦し」を言葉通りに受け取っているのだが)。老婦人に対して斧が振るわれるカットでは、壁紙に血飛沫が飛んでいるが、振り下ろされた斧は老婦人の寝ていたベッドの脇のスタンドに衝突してその灯りを消滅させ、画面に闇を到来させる。「暴力」を直接には画面に出現させないことで(ブレッソンに言わせればその出現は「スペクタクル」として拒絶すべきものなのだろう)、禍々しい「暴力性」を描くブレッソン。

だがやはり、どうにもカット繋ぎが不自然だ、という普通の感想も覚えてしまう。先述した、「モデル」の異化効果による肉体性と同様、カット繋ぎのズレもまた、単純な「省略」を越えた、言わばカットの唐突さそのものが斧のように現実を切断しているような力を感じさせもするのだが、これもやはり、全てをコントロールし自らの絵を描くブレッソンの手の存在がちらつき過ぎる。

老婦人殺害シーンで部屋を染めている赤い照明は、カメラ店の暗室のそれを想起させる。赤=血=暴力という単純な連想を誘う記号性がまた退屈さをいや増すのだが、赤という色彩の鮮烈さが何の印象も与えないということはやはりないのも確か。暗室にいた青年は主人公と異なり、自ら悪の道を遂行しつつ、貧しい者に施しをするという形で善に回帰しようともする。それと対照的に、主人公は、偽札を渡されたことや、事情を知らされないままに強盗の片棒を担がされるなどして、自らは悪を選ばぬままに罪びとの烙印を押される。そして遂には老婦人に対し、金が目的ではなく、愉しみの為に殺人を犯した、と口にするような悪に染まる。実際、彼は金を欲したというより、他人たちや社会に対して復讐を行なう為の理由付けが欲しかったのだとも思える。法によって社会から選択権を徹底的に奪われた彼は、元々は他人から押しつけられたものでしかなかった悪を、自らの意思として肯定することで人間性を奪還しようとしたともいえるが、その結果、血に餓えた野獣として振舞うという形での、人間性の喪失という試練をくぐることにもなる。

事の発端となった偽札を作った少年はというと、母親が店に謝罪に訪れ、幾ばくかの金銭(ラルジャン)を渡すことで解決してしまう。この母親は、店からの去り際には、お客と同じように相手の店員にガラス扉を開けてもらっている。つまり、金さえ出せばいいのであって、善とか悪とかいう判断はどうでもいいのだ。実際、騙された側の店長こそが、主人公に偽札を渡すよう従業員に指示した人物なのだ。

この、非人称的で抽象的な絶対価値としての、つまりは神に取って代わるものとしての、金銭。ブレッソンらしく「手」のカットが本作にも見えるが、『抵抗〈レジスタンス〉 死刑囚の手記より』冒頭の車内シーンや、『少女ムシェット』の密猟シーン、『スリ』の掏りシーンような躍動感は無く、物語を支配する紙幣の授受という出来事を淡々と写す。タイトルバックが現金自動預け払い機のカットなのも、機械と金銭という形で、社会を支配する非人称的なるものを提示したと言える。ラストカットで、主人公の自首という出来事を見つめる群集が後ろ向きで写っていることも、非人称性=匿名性に覆われた世間を感じさせる。

とはいえ、そもそも主人公自体が、端から意思の有無など論じるに値しないような「モデル」としてしか映じず、その、社会の歯車として転がるだけの家畜のような愚鈍さは、まさに家畜であるバルタザール(『バルタザールどこへ行く』)の動物的愚鈍さのような形で社会に抗することもなく、ムシェットの眼差しのように人を射抜くわけでもない。僕にはやはり全篇が退屈にしか思えないのだ。とは言いつつも、この極端な退屈さそのものが、荒涼たる光景そのものに於けるエピファニーとして印象を残す面も確かにありはする。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)袋のうさぎ junojuna[*]

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