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[コメント] ジョーズ(1975/米)

弦楽器の二音の反復の速まりが緊迫感を呼び、そこに被さる管楽器の鈍い音が、水中を横切る鮫の巨体を思わせる。足場のない海に半裸で浮かぶという、無防備な状況。鮫がいつどこに現れるか分からないせいで、何もない海自体が恐怖の対象として人間を包囲する。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







アングルと構図に凝った個々のショットが見もの。

鮫が、その狂暴性だけは存分に示しながらも、終盤までなかなか姿を見せないことで、本来は鮫が現れるシチュエーションでしかない筈の海そのものが、冷たく青ざめた、広大な恐怖と化す。そしてカメラの目線は、この鮫=海と一体化するのだ。水中から人間を捉えたショットや、波立つ海の表面を捉えたショット。

水中のショットでは、警戒心のない人間を下から捉えることで、逃げ場のなさが強く印象づけられる。また、ヒッチコックの『』のような俯瞰ショットと比べて、観客自身にも馴染みのあるアングルであることが、より臨場感を増しているように思う。

終盤での接近戦に入るまで、出来事は常に海の表面で起きる。不気味な沈黙の内に突き上げられた、鮫の背ビレ。叫び、もがき、やがて海面の下に姿を消す人間。真っ赤な血が、海の青にグロテスクに浮かびあがる。この映画は、海に背ビレを付ける演出を為していると言ってもいい。

ずっと姿を隠していた鮫が、終盤、牙を揃えた大口以外は付録でしかないようなその姿を晒すことで、それまでは広漠とした海全体が担っていた恐怖が、鮫の身体に凝縮される。これが恐怖のピークであるのと同時に、対象が明確な形をとったという意味では、人間側の優位でもある。だから、鮫が爆破された途端に、生き残った二人が抱きかかえるようにして浮かぶ海は、安心なフィールドになるわけだ。

ストイックに恐怖映画としての演出を追求したのであろうその演出は、「怖そうな音楽」+「海そのものに視覚を与えたようなショット」という、殆ど抽象的なまでにシンプルな視覚と聴覚の刺激に徹する。恐怖のソニマージュ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (8 人)赤い戦車[*] おーい粗茶[*] 3819695[*] わっこ[*] mal Myurakz[*] ina ぽんしゅう[*]

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