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[コメント] ダンボ(1941/米)

生まれながらの特異な個性、周囲からの孤立を強いるものが、何かのきっかけで、誰も為し得ず、誰もが瞠目する何事かを実現させるということ。才能とは、ダンボの耳のようなもの。愛らしいメルヘンなのに、ガチで狂気をぶつけてくる幻覚シーンにも感心。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ダンボの、自分がバカにされていることにすぐに気づかない無垢さが泣ける。ダンボをバカにする人間の悪ガキ自身、耳が大きい、という辺りに細かい技が利いている。ダンボの母ジャンボが暴れるシーンでの、彼女の目が真っ赤になるその色と表情、動きの描写は、この楽しいメルヘンの中にあっては、けっこう恐怖。この、色彩感覚や動きの造形に時おり垣間見える、一種の狂気が一気に炸裂する幻覚シーンはもう、ここだけ一個の独立した作品として評価できるくらいだ。

で、意外にもこの幻覚シーンが、ダンボの飛翔というこの物語のキモの所を知らぬ間に実現させてしまっているのがまた驚き。子供向けのお話なはずなのに、「脳がイッちゃってる間に飛んでました」という展開には、「…それでいいのか?」と。ただ、象が飛ぶというのを想像力の飛翔とのアナロジーとして描いているともとれ、これはこれでアリだとは思う。

動物の中でも重量級の代表選手である象を鳥のように飛ばすという発想が素敵だけど、この物語ではそれに加えてダンボに、長い耳を自分で踏んでしまって、自由に駆けることが出来ない、というハンデをも負わせていて、その哀れな姿がクライマックスの達成感に向けた助走ともなっている。他の象たちから、象とは認められないと村八分にされるダンボが逆に、象には絶対不可能なはずの、空を自由に飛ぶという業を成し遂げるということ。空飛ぶダンボの丸っこい影がはるか下の地上を走るショットは、愛らしくも感動的。

ダンボの耳は、翼になる前にも、彼自身を包む衣になったり、シャワーを受ける屋根になったりと、必ずしも邪魔ものであるだけでなく、使い道のある耳として描かれている。そこが良いところで、何か際立った個性というものは、困りものとなるのと同じくらいに、工夫して活かせるものでもあるわけだ。そうした可能性の中から「飛ぶ」という一つのアイデアが生まれる。最初から、飛べなければひたすら不格好で無意味な耳という風には描かれていないところが好きだ。「象が飛ぶ」というワン・アイデアに驕らない制作者の、ダンボへの愛を感じる。

人間の幼児が持つような愛らしさと、象の鼻、耳、手足の動きでしか表現できない愛らしさを巧みに融合させたダンボのキャラクタリゼーションが見事。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)DSCH[*] tredair Myurakz[*] ジェリー[*]

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