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[コメント] バリー・リンドン(1975/米)

一兵卒の一炊の夢。二つの母子の物語。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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計算し尽くされた時間的、空間的構成による美。これについては多言を弄するのも憚られるし、観てもらえば誰の目にも一目瞭然。しかしこの映画の大きな魅力はもう一つ有る。例えば、礼儀正しく紳士的な追い剥ぎ親子が登場する場面などに見られるような、低温でいながらも辛辣で皮肉なユーモア。どこか北野武の作風を思わせるけど、北野監督自身、『2001年宇宙の旅』にいたく感動したと言っているし、キューブリックのクールなセンスから受けた影響は、「笑い」という要素にも及んでいるように感じられる。 この作品の中では特に、あのバリバリー氏は、名前からしても、あの化粧にしても(眼帯やヒゲの厳めしさとのギャップが強烈)、その存在自体が完全にギャグ、それもかなりベタなギャグと言って良いように思える。尤も、キューブリックの事、当時の貴族たちの、顔を真っ白に塗りたくる化粧は、時代考証に忠実にさせたものの筈。つけぼくろも、実際にこの頃の流行だったようで、肌の白さを際立たせるのが目的だったとの事。となれば、白粉の過剰さも同じ理由から理解できる。

さて、この物語を一言で要約すれば、「出世の階段を駆け上った男が、最後の一段がほんの少し高い事に気づかず、一気に滑り落ちる物語」とでも言えば良いのだろうか。バリーが紳士としての地位を失墜させる原因になった、義理の息子との大立ち回りは、考えてみれば、バリーが英国軍に入って早々に起こした喧嘩騒ぎと、やっている事自体は大して変わらないようにも思える。しかし、下級兵士たちと共にいる時には名誉として称えられた行為も、貴族社会の中では、自らの名誉に泥を塗る事になってしまう。こうした齟齬が、下層階級出身から這い上がろうとしたバリーに与えられた運命の皮肉。ひたすら上昇志向でやって来た彼は、金と権力と行動力で、貴族の名声も手に入る筈、と必死になって、貴族社会の空気が読めていなかった、というただ一点の過失によって没落していくのだ。

最終的にはバリーは、片脚を失って母と故郷に帰る羽目になり、結局は最初の決闘で足を撃ち抜かれて追放されたと同様の結果となってしまう。バリーは、最初の決闘で、自身の胆力によって勝ち得た幸運を、自ら棒に振ってしまったわけだ。これはバリーの愚かさではあるが、また同時に、そうした腕っ節頼みの世界から、上流社会へと上がるにつれて、嘘と金と因習の支配する社交界の掟の方が勝っていき、最後には、バリーがそれについていけなかった、という事でもある。 バリーのラスト・ショット、片脚となって杖で身を支えるバリーの姿は、戦場から帰った傷痍兵の姿そのものだ。

退役した一兵卒のように、ただ年金だけを受け取る身分になったバリー。この作品では、戦争は、バリーが上流社会に接触するまでの間、バリーが身を置く底辺の世界として、物語の軸になっている。フランス軍と英国軍の戦闘場面の、非人間性。キューブリックの映画では、戦争を指揮する原理はいつも、兵士たちの命を、損益の計算で扱うが如き、抽象的で無表情な、マシン的なものだ。玩具の兵隊か、チェスの駒のように、整然と並ぶ兵士たち。真正面のフランス軍が規則正しく撃ち放ってくる銃弾。それに当たるか当たらないかは、全くの運任せであり、それは劇中の決闘場面の博打的な雰囲気と同一のものだ。まるで標的の的のようにバタバタと倒れていく兵士たち。そこで何ともあっけなく親友を失ったバリーは脱走兵となるが、その博打的な生き方には、却って拍車がかかることになる。なにしろ、イカサマ賭博の片棒を担ぐ事が、その生業となるのだから。

兵士たちが行進する際、軍楽隊が演奏する行進曲は、その明るい旋律が僕らの耳にも馴染んでいる、親しみを感じさせる曲。しかし、その曲にのせて進む兵士たちは、弾丸を身に受けて、血と苦痛の中に沈んでいく。この、能天気な音楽と陰惨な暴力とのギャップは、キューブリックが『フルメタル・ジャケット』や『時計じかけのオレンジ』、『博士の異常な愛情』などで繰り返し使った演出法だけど、この作品では、厳しい階級社会という時代背景が手伝って、最も音楽と映像とが自然に馴染んでいる。そしてその事が、そこに描かれた、死の軽さが恐ろしい。

バリーが、出世街道を行く中で手に入れたものの中で、唯一、心から愛した息子、ブライアンは、彼の夢の最も純粋な結晶だ。そのブライアンが逝こうとする時、息子から、彼にいつもベッドで話してやっていた、城を攻めた時の話をせがまれる場面は、劇中で最も痛切な場面。フランス兵を斬りまくり、撃ちまくって、そこいらには彼らの生首が幾つも・・・・・・、と、いつもは自慢げに語って聞かせた話が、息子の死を前にして、本来の、陰惨な血の臭いと死の冷厳さを取り戻す。戦場で、使い捨ての駒として朽ちていく兵士たちの屍の上に築かれた虚栄を得ようとした、脱走兵バリーに与えられた劫罰、それが、息子を失うという、取り返しのつかない悲劇だったのかも知れない。

最後に、この映画はまた、二組の母と息子の物語でもある。いや、より正確には、母に孝行しようとする息子の健気な奮闘の話だと言った方が良いのかも知れない。バリーは決闘の後、母に別れを告げて放浪の人生を送り、遂に最後に落ち着くべき家を手に入れた時、母を呼び寄せる。それとはあべこべに、元からその家に居た、リンドン夫人が前夫との間に生んだ息子ブリンドンは、家の中に居場所が無くなっていき、遂には追い出される形になる。そしていよいよリンドン家崩壊の瀬戸際になり、母が精神のバランスを崩したと聞いた時、母と家門を救う為に立ち上がるブリンドン。名家のお坊ちゃまだった彼が、無様な姿を見せながらも命がけで立ち向かってきた時、初めてバリーは、彼の事を本当に息子のように感じたのかも知れない。そして、そこにかつての自分の姿を重ねていたに違いない。だからこそ、自分を否定する存在であるブリンドンを、自らの手で撃つ事が叶わなかったのだ。

この映画の最後は、バリーではなく、リンドン夫人とブリンドンが書類の処理を淡々と行なっている場面で終わるが、バリーに年金を送る契約を記した書類にサインする時、リンドン夫人が、硬質な表情の中にも深い動揺を見せる場面は、この映画の中でも白眉。一兵卒の一炊の夢として終焉を迎えたこの物語ではあるけれど、夫婦として向かい合ったバリーとリンドン夫人との間には、身分の差を越えた、裸の人間として共にした生活があったのだ。それが、最後には元のように持てる者と持たざる者の垣根に隔てられた立場に戻り、金銭以外の繋がりが断たれる事になるという結末。その事へのリンドン夫人の戸惑いと、その彼女の様子を黙って見守るブリンドンの険しい表情。この映画は、キューブリック流の冷徹さが光る作品ではあるが、と同時に、親子や夫婦といった、最も原初的な人間関係や、友情、恋愛、望郷の念といった素朴な感情が、常に根底に感じられる。キューブリックを語る上では、余り言及される事が多くない印象の有る作品だが、実は最も普遍性の高い作品かも知れないのだ。そして、終詞の「善き者も悪しき者も、美しき者も醜き者も、富める者も貧しき者も、今は全て、同じくあの世」という一文には、時代を超えた全ての人々への、深い鎮魂の念を覚えずにはいられない。

(評価:★5)

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