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[コメント] ペイルライダー(1985/米)

西部劇のヒーローに最も不似合いな格好をした主人公。血湧き肉躍るアクションではなく、そのイメージの残像としての西部劇。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







クリント・イーストウッドの演じるプリーチャー(preacher=牧師)は、なぜ牧師の格好をしているのか。恐らく、過去に殺された自身の葬儀を自ら執り行う者としての、その衣装。また、この牧師姿によって、プリーチャーは銃を手にせぬまま敵に対抗し得るのか、というサスペンスを生じさせもする。かのイーストウッドが、銃を手にするか否か、などという疑問を観客に抱かせるという所からして、異様な映画だ。プリーチャー初登場シーンでも、彼が悪党を撃退するのは銃によってではなく、その辺にあった木の棒によってだ。このシーンだけ、半ばチャンバラ映画と化しているのも面白い所。

そのプリーチャーが、遂に銃を貸金庫から取り出すシーン。やはり銃を手にするわけだが、自らの手から離れた貸金庫に預けていた銃は、「過去」として封印されていたのだろうとも感じさせる。ここから、さぁ本格的な闘いが始まりそうだと緊張感も高まるが、と同時に、プリーチャーの過去を説明する回想シーンが途中で挿み込まれるのではないかという不安も沸いてきてしまう。不粋で説明的なシーンの挿入で、高まった思いをブツ切りにされては堪らない。だがそんな心配は杞憂に終わる。過去の因縁は、必要充分の簡潔な表現で描かれる。

プリーチャーが、彼の宿敵であることが既に匂わされていた保安官・ストックバーン(ジョン・ラッセル)を射殺するシーンでは、序盤でプリーチャーの背中に見えていた円形の弾痕と同じ撃ち方が為される。更にとどめとして額に一発撃ち込まれるのだが、これはストックバーンと、お揃いの衣装で並んで登場した副官らによってスパイダー(ダグラス・マクグラス)が撃たれた時と同じとどめの刺し方だ。またこの一撃は、プリーチャーがあれほどの弾痕が残るほど撃たれながらも生き延びた理由を明かしもしているだろう。

ラストシーンで、メーガン(シドニー・ペニー)がプリーチャーに呼びかける声が響き渡る光景は『シェーン』を想起させるが、作品そのものをよく観ていれば、シーンの意味合いはかなり異なるものとして感じられる筈。プリーチャーを呼ぶ声は、彼がサラ(キャリー・スノッドグレス)から想いを告白されるシーンで既に発せられていた。谷間にゆったりと木霊する、「プリィーチャアー……」の呼び声。誰が、何を思って「プリーチャー」と呼んでいるのかも定かでなく、この世ならぬ所から聞こえてくる声のようでもある。当のプリーチャーは、「過去の声だ」と呟く。最後にメーガンが彼を呼んでいた声も、やはり既に、「過去の声」だったのだろう。

そもそもプリーチャーの登場自体、悪党たちに襲撃を受けて殺された愛犬を悼むメーガンが、神の救済への疑問を付け加えながら墓前で祈る姿とオーバーラップする形で、プリーチャーの姿と山の光景とが浮かび上がるという、どこか不吉な奇蹟のような登場であった。そしてエンドロールでは再びプリーチャーの姿は風景に溶け込み、ラフッドらによる水圧採掘法の水飛沫を髣髴とさせるような霧と、その上方からぼんやりと射し込む光という画で終わる。

こうした、亡霊のように希薄な存在としてのプリーチャーは、全篇を通じて、カット割りによっても示されていた。彼が初登場するシーンでは、街でハル(マイケル・モリアーティ)に絡んでくる悪党の内の一人が、遠くにプリーチャーの姿を一度見るが、同じ場所をもう一度見ると、そこには誰も居ない。プリーチャーに対抗するためにストックバーンが呼ばれるシーンでは、電報を頼まれた駅の職員が、列車の向こう側にプリーチャーの姿を見るが、もう一度そこを見ると、やはりその姿が消えている。

極めつけは、最後の決闘シーンだ。カフェで、窓に背を向けて座っているプリーチャー。悪党どもは「マヌケめ」と油断して、一気に扉を開くと銃を撃ちまくるが、彼らが銃弾を撃ち尽くすと、横から「済んだか?」とプリーチャーの登場。悪党どもは、誰も居ない空間に延々と撃ち続けていたのか?彼らが弾を込めて再び銃を向けるのを待ってから、撃退するプリーチャー。今度は外に立って、ストックバーンらを決闘へと誘うが、いざ彼らが外に出ると、そこには帽子だけが地面に置かれている。そして、姿なきプリーチャーによって、敵は次々と葬られていく。最後にストックバーンの前に姿を見せるプリーチャー。拍車の音がチーン、チーンと鳴り響く。この音で敵に居場所を察知されなかったのか?

カフェ襲撃のシーンでは、店内に入って悪党が撃ちまくる先のフレーム外にプリーチャーが居ると想定するのが約束事、というのを逆手にとり、副官らを始末するシーンでは、殆ど『ジョーズ』のように、風景と一体化した脅威と化すプリーチャー。亡霊としてのプリーチャーは、ガン・アクションの身体性を犠牲にして、イメージ・幻影としての無敵さを手に入れる。思えば、全篇を通して、プリーチャーが打撃なり銃弾なりを受けるシーンは皆無だったのではないか?その最強さによって、西部劇としての身体性そのものを否定してしまうイーストウッド。彼が牧師の格好で現れたのは、やはり葬送のためだったのだ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ぽんしゅう[*] 緑雨[*]

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