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[コメント] 永遠と一日(1998/仏=伊=ギリシャ)

「バス」や「車」と、留まる時間。「白」と「海」の彼岸性。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







国境という名の彼岸。それをアンゲロプロスは「白」に託すのだが、本作では、名の示されない少年が人身売買にかけられるシーンに於ける霧ないしは曇り空の白、建物の白、室内の椅子や壁の白、そしてアレクサンドレ(ブルーノ・ガンツ)に連れられて少年(アキレアス・スケヴィス)が国境を訪れるシーンでの雪の白、そしてこのシーンで二人に歩み寄る軍人など、「白」「国境」は、「子どもを浚う大人」という脅威と結びついてもいる。「天国」のイメージを伴いもする「死」という彼岸とは異なる、現実的な地上の脅威としての「白」。少年が仲間の少年らと一緒に、死んだ仲間を弔うシーンの静謐な平和は、子どもたちだけの空間がそこに現出していたからだ。そして、詩人ソロモスが夢に見たという、母の白い花嫁衣裳や、実際に画面に登場する花嫁の白い衣装。

少年の弔いのシーンでは、無数の少年らが手すりに腕を置いて葬儀を見下ろしていたが、国境のシーンでは、遠く霞んで見える国境線の向こう側に、フェンスに取りついてこちらを見つめているらしい、無数の人陰が見えていた。この光景を反復するように、白い衣裳の花嫁が海へ向かい踊りを始めるシーンでは、柵に人々がしがみついてその様子を見ている。楽しげに踊る花嫁。だが突如、音楽はやみ、花嫁らはこちらに視線を送ってくる。アレクサンドレが、飼い犬を預かってもらおうと、息子の結婚式に来ていた家政婦(エレニ・ゲラシミドゥ)に歩み寄ったのだ。回想シーンでもアレクサンドレは、海岸で楽しもうとしている家族たちから離れて、一人、崖に登る。人々の楽しみの輪の外にある存在としてのアレクサンドレ。

ラストシーンでようやく彼は妻のアンナ(イザベル・ルノー)と踊るのだが、その時には、皆も同じように男女二組で踊りの輪を成している。ようやく皆と一緒になれたアレクサンドレだが、その後、妻も去り、一人残され、海に向かって単語を切れ切れに発することしか出来ないアレクサンドレの耳からは、彼の名を呼ぶ母の声さえ遠のいていく。

これら切れ切れの単語は、アレクサンドレが研究していた19世紀の詩人、イタリアで暮らしていた為に故郷ギリシアの言葉を知らず、人々から、知らない言葉を買っていた詩人ソロモスが口にしていた単語、そしてアレクサンドレ自身が少年から買った単語だ。その少年もまた、売られようとしていたところを、アレクサンドレが金を出したことで救われたのだった。一方で、アレクサンドレの思い出の詰まった海辺の家は、娘夫婦によって売られてしまっていて、アレクサンドレが「旅に出る」と言っていた「明日」に取り壊されることになっている。アレクサンドレは、金銭によって居場所を得たり奪われるという点でも、少年と境遇が重なる。

アレクサンドレは、娘(イリス・アジアントニウ)から「お父さんほどの作家がどうして19世紀の詩人の研究なんて」と言われたり、偶々出会った男性から声をかけられ「貴方の作品で育った世代です」と告げられるなど、所謂「国民的作家」の地位にあることが覗える。だが、自らの仕事に全く満足感を覚えていない様子の彼は、少年の為に、身代金やらタクシー代やらの金銭を惜しげもなく手放すことで、自らが築いた虚しい社会的成功を清算しているかにも見える。

少年は最初、口を利かず、ギリシア語が話せるのかさえ定かでないが、いつの間にかアレクサンドレと言葉を交わしている。居場所の無い二人が、「徐々に」言葉を獲得していくことと、故郷の言葉を一つ一つ買っていたソロモスとのアナロジー。

少年の、アレクサンドレに見つけてもらうことが予め定められていたかのような、目立つ黄色のジャケット。彼とアレクサンドレが別れの前に乗るバスの後ろからは、自転車に乗った、黄色いレインコートの三人が追いかけてくる。闇に浮かぶその黄色の鮮やかさが切ない。

「言葉と時間が足りない」詩人が遂に仕事を完成し、真に愛する者の許へ帰還できる「明日」の長さとしての、「永遠と一日」。登場して間もなく、犬と散歩するアレクサンドレが内心で呟く「私は何も成し遂げていない。全て下書きばかり。言葉を散らかしただけだ」。永遠という時間が与えられて初めて完成し得る仕事に耽るあまり、妻との時間を逃した彼が、妻と共に過ごす一日、それが「永遠と一日」。ソロモスに問うても答えがなかった問い「明日の時間の長さは?」に妻が答えるのもその為だ。アレクサンドレが海に向かって、断片的に単語を発するラストカットは、「永遠」の海に向かって「言葉を散らかす」ことしか為し得ない詩人の宿命を、厳粛に告げる。

終盤、少年とアレクサンドレが共にバスに乗るシーンは、乗客たちの様子にギリシアの世相を反映させつつも、時が止まったかのような静謐さが訪れる。呼吸の静止を思わせる、永遠の感覚。乗り込んできた合奏団による、場の平穏を破らぬままに時を脈打たせる音楽。それを幸福そうに聴く少年とアレクサンドレ。切符係の男の、無関心な、淡々とした仕事ぶりさえ、その場に静謐さを添える。

子どもたちを買いに来ていた大人たちが皆、一緒にバスに乗って、まるでツアー観光客のように現れていたことや、少年が、一度は国境行きのバスに乗りながらも降りるシーンなど、「此処ではない何処か」としての「バス」は、最後には束の間の天国のような平穏な空間となる。バスの内側でシーンが構成されるのも、少年とアレクサンドレが乗るシーンのみだ。

最後の、海辺の家の中をカメラがゆっくりと捉えていくシーンでは、外の車の走行音が挿入され、緩慢なカメラワークと対照的な車の速度、留まろうとする回想の時間と現実の変化の時間との対比が感じられる。アレクサンドレと少年の出会いも、赤信号で停まったアレクサンドレの車のフロントガラスを拭こうと少年が駆け寄ってきたこと、つまり「車の停止」によるものなのだ。少年と別れたアレクサンドレは、呆然としたまま一晩、信号の前で停車している。青信号でも進まなかった彼が、突如、赤信号で他の車が停止しているのも構わず、一人発車する。彼はそのような、他者から断絶した存在なのだ。

花嫁衣裳や「白」、「水」の使い方、小舟がこちらへ向かってくるショットの美しさなど、次作の『エレニの旅』の方が明らかに優れているのだが、それでいて本作ほどの感動がもたらされずに終わるのは、やはり、そこに生きた人間が息づいていることが実感し得る作品であったかどうかの違いだろう。ショットの詩的な美しさのみが映画を成立させているわけではないのだ。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)chokobo[*] 若尾好き Santa Monica

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