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[コメント] エバー・アフター(1998/米)

簡単には童話的な因果応報に守ってもらえぬ現実に対し、「やられたらやり返す」の精神で立ち向かう、強いシンデレラ。だが、「愛されて愛し返す」というのは、知恵や腕っ節でもままならぬ、というのもまた現実。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ダ=ヴィンチがあんな好々爺で出てきたのには違和感を覚えたが、彼が或る意味、魔法使い役を果たしていく過程を見るにつれ、まぁこれもありかな、と。ダニエルが図書館に並ぶ大量の本に興奮する場面などには、彼女の知識欲が表れている。そんな様子に感化された王子は、図書館を民衆に開放する事を考えつく。庶民の出で学芸を修め、王族からも「先生」扱いされるダ=ヴィンチは、ダニエルと王子の希望が実った時の、究極の理想像のような位置にある訳だ。

ダニエルは、父親から知識の他に剣術まで習い、自ら窮地を脱する能力と積極性があるのに、なぜ継母や義姉の言いなりになってしまっているのか、いまひとつ解せない気はする。とは言え、父親が招いた家族なのだから、と気を遣っていたのかも知れない、などと推測が出来なくはない。また、ダニエルが継母に「一度でも愛してくれた?」と問う場面からは、愛し、庇護してくれる存在として期待できたのは、継母だけだったのかも知れない、と想像させられる。

この「愛されたい」という点が、唯一の、また絶対的に「王子様」が必要とされる理由にもなっている。王子は、ダニエルもまた王女の位を狙って自分を騙した女の一人だと勘違いをするのだが、そんな時、彼に追い払われたダニエルが残した靴が、雨に濡れる。ダ=ヴィンチが拾って王子の傍に置いていった靴だという所から、彼の「もう少しよく考えろ」というメッセージの意味もあるその靴が雨に打たれる事で、王子はダニエルの身を案じる気持ちを甦らせる。その時、当のダニエルは、雨の中、家路を急ぐが、辿り着いた家の扉は閉ざされており、何ものにも庇護されない状態にされている。

この、身を守るものが何もない一人の娘、という描写があってこそ、後に王子が彼女の前に跪き、自分はただの男だと告げる場面が生きてくる。ダニエルは、色欲中年男に鎖で繋がれてもそこから脱する娘だから、王子に「助けてもらう」必要は特に無いので、王子が「君を助けに来た」と告げても、何の話?という様子。むしろ、ロマ族に襲われた時には、ダニエルが王子を担いでいこうとしたくらいなのだから。だが、自分が安心して身を置ける場所や、愛されていると感じられる存在だけは、いくら知識や腕力があっても、ままならない。だからこそ、王子が自分の前に、ただの愛する男として跪く場面に意味がある。

ところで、継母は一度、自分の実の娘が王女になる事に希望を感じていた時には、ダニエルに優しい言葉をかける。「母親の面影があるんでしょうね」、「父親にも似ている」と。「男顔ね」という言葉も、王女候補としてライバル視する必要の無い娘だと思う事で安心しようとしているように見える。ダニエルが「父を愛していた?」と問うたのに対し、「知り合う機会も無かった」と答える継母もまた、愛情を感じる事の無かった人なのだという事が垣間見える。実際、ダニエルの父が突然死に瀕した時、この継母は本気で案じ、また嘆いていた。だが、彼女の夫は、新妻に目もくれず、幼いダニエルにだけ眼差しを注いで、別れを告げて死んだ。その後、ダニエルが召し使いとして扱われたのは、夫の愛情を独占した事に対する、継母の復讐に思えた。尤も、この夫が旅立つ時、家の慣わしに従って、彼が手を振る時に姿を見せ、応えてくれる場所に、新妻とその娘達は居なかったのだが。

だから、この継母が最後に、「靴に入った小石を愛せる?」とまで言い放った相手であるダニエルにしっぺ返しを食らうのはまだ分かるのだけど、染料に塗れてコメディタッチの醜態を晒して終わりというのは、余りにフォローが無さ過ぎるというか、単純な勧善懲悪の純愛映画に落ち着いてしまったな、と残念。これなら、継母がガラスの靴に合わせる為に娘の足に刃物を入れたり、王女になったシンデレラが、復讐の為、焼けた鉄の靴を義姉に履かせ、熱さに踊らせる、などといった、人間の狂気の域を描いてくれた方が、色んな意味で余韻が残ったように思うのだが、そこはやはり、商業映画の限界なのか。尤も、シンデレラの「目には目を」の気の強さは随所で発揮されていたけれど。

最後のナレーションで「覚えていてほしい、彼女たちは生きたのだという事を」は、お伽話のイメージで捉えられているシンデレラと王子が、もし実際に存在していたとしたら、当時の時代状況から考えて、こうした苦難があったに違いない、という事が言いたかったのだろう。それは、劇中で王子が、王族として扱われる苦労を吐露したのに対し、ダニエルが言う「ロマ族だって、ロマ族というだけで判断されてしまう」と言う台詞、また、最後にただの恋人同士として結ばれた二人の姿を思えば、「お伽の国の登場人物」というイメージに囚われないで見てほしい、という、物語のテーマの表れだったのだろう。そして、そうしたイメージを脱破する努力の必要性も。下着姿で木に登るダニエルに王子が言う「君に出来ない事は?」に、彼女は「飛ぶ事」と答える。この「飛ぶ」という魔法の使い手としてのダ=ヴィンチ。この「飛ぶ」というのは、時代の常識や既成観念に囚われて、物事を諦める姿勢を捨てる、という事の一つの象徴になっている筈。

童話の決まり文句「Ever After(それからずっと)」に至るまでの過程が肝心。尤もこの映画は、お伽話を「現実的」にしたというよりは、「現代風」のサクセス・ストーリーに変換したと言うべきか。一人の女性の奮闘が報われるファンタジー。色々と都合のいいタイミングで事が起こるのも、逆に、ピンチを煽るタイミングで事が起こるのも、この映画がファンタジーだから。だが、ドリュー・バリモアの優れた演技が、グッと感情移入を高めてくれる。各場面で、繊細微妙に多彩な表情を演じ分ける感性。役柄の性格的統一性を崩さぬよう、演技のアクセントを適度に抑制する理性。この演技力には、見惚れてしまう。

(評価:★3)

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