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[コメント] 惑星ソラリス(1972/露)

ワンショットの重みとしての、人間と事物と大地の有する「存在」という重み、時間の重み。追憶の重み。物質と記憶。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







タルコフスキー作品を特徴づける、ワンカットの、重い持続。「ショット」は、被写体を的確な構図で見せるべきものであり、観客がそれを見届けた辺りでカットするのが当然――というショット観からすれば、タルコフスキーは随分と勿体つけた、非経済的な編集をして見えるだろう。だが、タルコフスキーは単に「画」を撮っているのではなく、被写体が呼吸する「時間」をも撮っているのだ。単に緩慢なリズムを偏愛していただけではない筈。

日常生活でも、或る絵や写真、ふと視界に入った風景でも猫でもいい、何らかの対象に眼差しを向け、その対象が与える印象の新鮮さが尽きるまで、見つめ続けることがある。これ以上見つめ続けていても、ただ惰性で「眺めて」いるにすぎず、「見つめて」いることにはならないような、そんな飽和点まで「見る」行為。タルコフスキーが被写体に向ける眼差しも、多分それに幾らか近いものだろう。それに気づけば、彼の映像に「冗長さ」や「停滞感」を覚えることもない。むしろ、一個のショットが充たすべき「時間」、被写体の存在感を捉えたものとしての「時間の重量」に達したと思えたその瞬間に、躊躇なくカットする潔ささえ感じる。

ワンカットといえばもう一つ気づかされるのは、緩やかに漂うカメラワークによって一旦フレーム外に出ていった人物が、しばらくすると再びフレーム内に収まる、という演出の為されたショット。この手法によって、そこに居る筈のない人物の出現や、分身の出現といったものが表現される。カメラワークによって与えられたフレームの動性によって、被写体の存在感を曖昧にするワンカット。これは、常々タルコフスキーが参考にしていたという『雨月物語』(溝口健二)の、よく知られたワンシーンに倣ったに相違ない。

尤も、彼の日本贔屓の反映としても、首都高を未来都市の光景として平然と使用してくれたのは、却って迷惑。ネオンの看板に書かれた文字が普通に読めてしまうせいで、単なる「ちょっと前の日本の日常風景」にしか見えなくて困る。『ブレードランナー』のように、都市デザインに日本的な要素を組み込む形なら問題ないのだが。若き日のバートン(ウラジスラフ・ドヴォルジェツキー)が証言する光景を記録したビデオでは、参加者の中に日本人と思しき人物が居たが、日本贔屓もその程度にしておいてほしいところ。

冒頭シークェンスでの、雨に打たれるクリス(ドナタス・バニオニス)と、卓上で、食べかけの林檎を蟻が這い、茶の入ったティーカップに雨粒が落ちるショット。そして、ラストシーンの、クリスの家の天井から雨が落ちかかり、室内の父が雨に濡れているショット。「水」が滲み込むことと、イメージの浸食との同一性。ハリー(ナタリア・ボンダルチュク)の分身が自殺を試みるシーンでも、彼女が用いた液体窒素によって、その全身が濡れている。水=ソラリスの海=映像、という連想が自然に働く。それ故、クリスがスナウト(ユーリー・ヤルヴェト)に「此処に何年も居て、現実世界との繋がりを感じるか?」と問う台詞には、「ソラリスに居る」を「映画の画面の前に居る」と重ねさせられてしまう。

スナウトは、「我々は他の世界を支配しようとすべきではない、我々に必要なのは鏡だ」と語るが、ハリーの分身が自殺を図るシーンでは、倒れている彼女の顔が、壁の金属に反映し、歪んだ二重の鏡像が見える。クリスが気を失って倒れているシーンでも、彼の姿が二重の鏡像を映している。またハリーの分身が、ハリーの写真を手に鏡に向かい、「この人は私なの?」と驚くシーンもある。人間の深層心理を映す鏡としてのソラリスの海は、記憶の物質化によって精神の鏡となるが、その精神そのものが、人間自身にとって捉え難いものでもあるのだ。

クリスがギバリャン(ソス・サルキシャン)の遺言ビデオを見ているシーンでは、ギバリャンが語り続けている画面を子供が横切り、ギバリャンは「見ての通り、幻覚ではない」と主張する。このビデオのモノクロ映像に合わせるように、それを見つめるクリスを捉えたショットもモノクロにされていて、映像と現実との境界が曖昧化されている。その夜、眠るクリスの許に、始めてハリーの分身が現れるのだが、観客の眼前に、極端なクローズアップで捉えられた分身の顔は、カラー映像であるにも関わらず幻覚的に見える。夢見心地のクリスは、亡妻が傍に居るのを自然に受け入れるが、その内に、夢から覚めたように、彼女の存在に瞠目することになる。

物理的に定着した像を、過去ないし幻影であると認識しているからこそ受け入れられるという点で、映像と分身とは非常に似ている。亡妻が現れたことに動揺したクリスは彼女を宇宙へ追放するが、それがソラリスによる記憶の物質化だと知ると、次に現れた分身のことは、妻として受け入れていくのだ。クリスが、スナウトと複製ハリーに両脇を支えられながら廊下を歩くのを背後から捉えたショットがあるが、現実の人間=スナウトと、虚像の分身=ハリーの二人に支えられてようやく立って歩いていられる、という、この状況。前面から射し込む光で度々画面が真っ白になり、観客はクリス同様に、視界を頻繁に失いつつ幻覚的な気分を味わわされることになる。

宇宙ステーション内の、サルトリウス(アナトーリー・ソロニーツィン)の部屋の前でのシーンだったろうか、クリスが一瞬、部屋の中を覗き、背後を向けて横たわる子供の耳がクローズアップされたカットが入る。これとの符合なのか、終盤、クリスの耳にカメラが寄っていくカットがある。地球で雨に濡れていたシーンと同様、クリス自身の身体が、幾らか現実性の曖昧さに侵されている光景だと言えるだろう。

ラストシーンでは、クリスの家の分身=複製が現れるが、冒頭、バートンの訪問を受けるシーンでは、「祖父の家に似せて作ったんだ。母も気に入っていた」といった台詞があった。即ち、そもそも実際のクリスの家そのものが、追憶の中から生まれた複製であったのだ。ソラリスは、奇跡的な仕方で人類に全く新しいものをもたらしたというよりは、人類が既に抱えている本性を、より極端な形で提示したに過ぎないのだろう。

先にソラリスに移っていた三人の研究者が、どのような分身と遭遇し、どう対応したのかは、遺言を残していたギバリャンにしても、生きてクリスと対面したスナウトやサルトリウスにしても、殆ど見えてこない。却ってそのことで、分身との遭遇の私秘性、誰にも明かさない深層心理の関わりが、間接的に感じられる。

SF映画であろうとも、地水火風の四大元素が織り成すタルコフスキー世界は健在。「火」の印象的な箇所としては、ハリーの第一の分身をクリスがロケットによって宇宙に排除するシーンでの、彼の宇宙服に引火する火を挙げたい。これと、ソラリスに旅立つ前に、家の前でクリスが書類を焼いている焚き火だ。ラストシーンで再び家が登場する際も、焚き火が煙を上げている。まるで旅立ちの日から時間が静止していたかのようであり、この時点で既に、ラストカットで明らかにされる真相が推測できる。書類を焼く行為にしても、亡妻の分身を葬り去る行為にしても、共に、クリスが己が記憶を放擲しようとする行為だ。だが、記憶を葬るために用いた火は、クリスの許から離れようとしないのだ。

宇宙ステーションの名「プロメテウス」はギリシア神話に登場する人物。人類に「火」を、また科学的な知識をもたらしたことがゼウスの逆鱗に触れ、ハゲワシに肝臓を啄ばまれる罰を受け続ける。彼は不死な為、再生した肝臓を繰り返し啄ばまれることになるのだ。科学と引き換えの、永遠の劫罰。まさにこの映画の物語そのものだ。

「地」への愛着としては、ラストシーンでクローズアップされる植物の芽に端的に表れている。思えば、『WALL・E/ウォーリー』は『2001年宇宙の旅』へのオマージュに充ちた映画だったが、植物の芽に象徴されるテーマという面では、密かに本作へのオマージュを捧げていたのかも知れない。『2001年...』は幾何学的な漆黒の闇・モノリスに集約されていく求心性を持つのに対し、『惑星ソラリス』は、自然にそこに存在する風景、世界そのものへと広がる遠心性を持つ。本作に宇宙空間という「無」が登場しないことも、その世界・大地への愛着という点から理解できる。

その「遠心性」が最も端的に表れていたのは、ラストカットの、上昇する俯瞰ショット。人間サイズの視点からは「現実世界」であった、箱庭的な空中楼閣としての世界の小ささを明らかにする、この天上の視点からのショットは、押井守が幾つかの箇所で引用していた。これはまた、先述した『雨月物語』なカメラワーク同様、如何に「フレーミング」というものが虚実の境を左右するものであるのかを、如実に語っている。

『2001年...』も、ワンシーンやワンカットが延々と持続するという特徴があったが、そちらは人間を突き放すような冷厳さや超越性を感じさせるものであった(瞬間的なカット・インも用いられていたことが、それを証ししているだろう)のに対し、本作は、人、葉、水、大地などの存在を、時間の重みとして捉えようという包容性、内在的な眼差しが感じられる。両者共に、映像そのものが世界観なのだ。

水の中で揺れる草のイメージは、黒澤明も『』(!)で使用していた(『影武者』にもあった気がするが、草ではなく旗だったか?)。吉田喜重の『人間の約束』にもあった(「水=鏡」、或いは「記憶」というテーマの共通性)。草の、ゆったりとした揺れもまた、「時間の重量」を目に見える形にしてくれる。

日本でこの作品を配給していたのは「日本海映画」という会社らしいが、何ともお誂え向きの社名で、ちょっと面白い。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ジョー・チップ[*]

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