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[コメント] ファイト・クラブ(1999/米)

テロと石鹸。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







主人公がタイラーに、自分の理想像と共に父親の姿をも重ねて見るという、二人の分身的な関係は、普通に観ていても気づかされる所であるので、終盤で明らかになる二重人格という設定はむしろ蛇足に思えてしまう。これによってタイラーの人物が矮小化されてしまったのが惜しいと感じてしまう僕は、完全にこの映画に乗せられてしまったとも言えるのだけど。

金融界を支配するビルを破壊する、という、モロに9.11的なイメージは、主人公とタイラーの出会いの場が航空機内であり、タイラーが、爆弾として加工し得る石鹸の入った鞄を持ち込んでいるという所までもが予言的に見えてしまう。

だが、この石鹸とテロの結びつきは、「石鹸=体を洗う物=肉体主義」、「石鹸=日用品=日常に潜む破壊的衝動」、という二重の暗喩としても受けとれる。タイラーの言う、「昔、人は生け贄が焼かれる河の下流で洗濯をした」という逸話が示す、肉体は石鹸である、という事実が、石鹸=破壊的肉体主義という図式を更に強化する。

だが、体で感じられる直接性への志向のエスカレートを描くこの作品が、「映画」である事、現実の直接性を、切り貼りの出来る薄いフィルムに置き換える事で間接的なものとしてしまう事への自己言及もまた描かれる。タイラーの職業が映写技師であるというのがそれだ。この仕事が実は、不眠症である主人公が、タイラーへと人格交替している間に行なっていたという事と、タイラーが、観客が気づくか気づかないかの微妙な一瞬に、映画をブチ壊しにするようなひとコマのポルノ・フィルムを挿入していた事とは、「意識しない間に、異物として侵入する」という点でよく似ている。

主人公がテロを止めようとして駆けずり回るシークェンスで、周囲の人間が知らぬ間にタイラーのシンパと化している事も、知らぬ間に平和な日常へ行なわれる暴力の侵入、という一連の構図の一幕だ。観客が、主人公の人格分裂と一人芝居(自分で自分を殴ったり引きずったりしている)を目の当たりにするのは、タイラーの破壊対象であるピルの監視カメラと、他ならぬこの映画を撮っているカメラの目を通してだ。つまり、タイラーという人物が幻想である事をその目で確かめられるのは、肉体の直接性・即自性から離れる事によってのみ、という、この皮肉なメタ構造。

(評価:★3)

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