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[コメント] サクリファイス(1986/スウェーデン=英=仏)

主人公が世界の堕落を嘆く長台詞も、美しい緑の輝きの中を吹き抜ける風と化していく。だが色調で世界の様相を描き分ける演出はあからさまに管理的。映像の雰囲気に抗して目を凝らせば、話の構図も四角四面。とはいえ画面に唐突な驚きを生じさせる腕前は確か。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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長回しカットで延々と話し続けていた郵便配達夫の突然の昏倒。音響と揺れで世界の崩壊を描ききるシーンでの、誰の視界からも外にある牛乳入りの器が落ちて割れ、床に白い液体が広がるのを捉えたカット。主人公アレクサンデルが、世界の行く末を嘆く長話のさなかに「子供」がいつの間にかいなくなって不安がっていると「子供」が跳びかかってきて、反射的に払うと「子供」が鼻血を垂らしているというシーン。頻出する長回しも、その長さそのもので驚かせるような面があり、他のタルコフスキー作品に於ける、時間の重みを担ったロングテイクとはかなり印象が異なる。これはこれで好きなのだが、どこか彼らしくないような違和感も覚えはする。テーブル上に積み上げた椅子に火をつけようとしてなかなか火がつかないとか、火が燃え広がるさまだとか、もっとじっくりと執拗に見せてほしいという欲求を覚えてしまう。反面、魔女云々のシークェンスは些か退屈。

陽の光で漂白されたように清らかな景色の中で家が炎上するロングテイク。そこへ、誰がいつ呼んだのか救急車が到着して、日本風の黒い着物姿で動き回る狂った老人を車内に押し込み、去っていく。この一連の、荘厳であると同時にどこかコメディチックでもある不思議なシーンが脳裏に焼きついていた。このたび久々に再鑑賞してみたが、やはりそのコメディとしての味わいは疑いえぬものだった。夜にこっそりと「魔女」の家を訪ねて情交したアレクサンデルが、明るい日差しの下、コソコソと帰宅するさなか、友人が遠方へ移住する計画を話すのを耳にし、「オーストラリアだと。ワケの分からんことを言っている」などとブツブツ呟きながら身を屈めて家に向かう姿。

この、それまでの形而上的な荘厳さと対照的な矮小さは、その「犠牲」が愚かな妄想と区別がつかないように意図的に演出されたものなのだろうとは思うのだが、それによって、「魔女」と教えられた家政婦と寝るという行為は、実はそれ自体がアレクサンデルの願望であり、「世界の救済の為」などというのは、美学、哲学、宗教史を修めた気高い教養人としての自意識が要請した言い訳としての、もう一つの妄想に過ぎないのでは?という精神分析的解釈を許す余地が生じている。この家政婦マリアが、どうもアレクサンデルの妻から扱き使われている(と本人乃至はアレクサンデル)が感じているらしいことは、「皿を温めたら帰っていいですか」というマリアが「いいわよ」と言われた後から幾つか用事を言いつけられ、その無表情がカメラに寄ってクローズアップになるカットで示唆されている。

ポツンと一本植えられている「日本の木」や、プレーヤーから流れる音楽、アレクサンデルが羽織る着物(その色が、全ての色彩を呑み込んでいるとも拒絶しているとも言える「黒」であるのは必然的)、と、「日本」は異界とか彼岸とか憧れの象徴として登場している感じだが、『惑星ソラリス』に「未来の光景」として登場した首都高速と同じく、日本人から見るとどこかやはり滑稽な印象はある。そのせいでよけいにアレクサンデルの「犠牲」が矮小に見えてしまう面もある。「子供」(「小さい人」という訳も見たことがある)が希望の象徴としての木の傍に寝そべっているラストカットや、彼が林の中に小さな家の模型を隠してアレクサンデルの誕生日祝いにしようとしているらしいこと(これを見つけたアレクサンデルにそのことを告げるのも例のマリア)、つまりは最後に焼け落ちた家を新たに再生するであろうことを暗示しているともとれること。だが何か具体的なイメージとして、この「子供」が希望を担うのだと観客が信じられるようなものがあったのかは大いに疑問で、まさに「始めに言葉ありき」、「日本」も「子供」も記号として填め込まれている感が強すぎる。押井守デビッド・リンチと比較して、「タルコフスキーがインテリに受けるのは、言葉に逢着する世界を描いているからだ」と評した(『勝つために戦え!監督篇』)のも、この辺に理由があるのかも。「子供」に固有名詞が無いのも当然で、「子供こそ希望なのです」と言われたなら取り敢えずはまぁそうですねと言うしかないのだが、そうしたあまりに一般的かつ抽象的な話は退屈だとも言いたい。

人々をつなぎ、また彼自身も各地の不思議な話を集めて回っている(というかその為に配達業をしている)郵便配達夫は、冒頭の長回しから自転車に乗って登場し、その彼から「魔女」について教えられたアレクサンデルが、音でばれないようにという助言に従って自転車で行く辺りもどこか意味ありげだが、自転車という被写体そのものが映像として映えるのも手伝って、安直な記号に堕してはいない。冒頭のシーンで「子供」が自転車を紐で木につないだのに気づかず進もうとした配達夫が遠方から両手を広げてジャンプしながら怒ってみせるシーンは、そのマンガ的な動作が古典的な映画のコメディ演出(『水をかけられた撒水夫』くらいに古典的)を髣髴させて、自転車のアナログ感と併せ、不思議な幸福感を醸し出す。ひょっとしたら自転車は文明の利器としての自動車と対置されていたのかもしれない。自動車は家と一緒に爆発炎上していた。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)緑雨[*] ぽんしゅう[*] DSCH

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