コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 軽蔑(1963/仏)

彫像、幾何学的な建物、海の簡潔な美。ブリジット・バルドーの肉体の、天衣無縫な豊かさ。通訳によって反復されることで意味からずれ、片言の言葉によって意味から剥がれ落ちそうになる声。神話や芸術から遊離して、資本との猥褻な関係へと傾斜する映像。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







寝室でカミーユ(ブリジット・バルドー)がポール(ミシェル・ピコリ)に「私の膝、好き?」「胸は?」等々と執拗に訊ねるシーンでは、最初は画面が赤に充たされているので、赤い灯りが燈されているのかと思いきや、唐突に画面がカラーになり、更に今度は青に染まる。後のシーンで、ギリシアの神像に塗料が塗られている冒涜的なショットが幾つも登場するのだが、この、アメリカ人プロデューサー・ジェリー(ジャック・パランス)による歴史の塗り替えの暗喩と思しきシーンの最初の方に、目が青に、乃至は赤に塗られている彫像が登場する。すると寝室のシーンに於けるカラーの転換は、カミーユとポールの睦みごとが、歴史の眼差しを受けていたシーンということにでもなるのだろうか。

彫像たちは、女性像の陰部に黒で陰毛が描かれていたりと、散々な扱いを被っているのだが、ジェリーが歴史に対してエロティックな眼差しを向けていることは、ポールに資料として渡した本が、専ら古代の性的な図像の写真を載せ、それに解説を付けた内容であることでも暗示されている。先の寝室のシーンは、言わば、ジェリーによって下品に上塗りされた歴史が、カミーユとポールの秘め事を盗み見ているシーンなのかもしれない。

ポールと喧嘩をしたカミーユが、彼に黒髪のカツラを着けてみせたときに「ブロンドの方がいい」と拒絶されたそのカツラを着け続ける行為は、単にポールへの当てつけという以上に、色を着けられた彫像の立場を反復しているのではないか。「窓を閉めて雑音を遮断していないと眠れない」という彼女の言葉と、ラストの映画撮影シーンで、ラストカットの海に被さる「静かに」の声。カミーユは、本作で資本に蹂躙される歴史や芸術と同じような立ち位置にある存在とも言える。

映写室のシーンでは、「文化という言葉を聞くと私はつい拳銃に手が伸びる」というゲッベルスの言葉の変奏のように、つい小切手に手が伸びるジェリーが小切手を切るのだが、その際、女性秘書に上半身を下げさせて、その腰の上で小切手にペンを走らせる。その光景は、ちょうどジェリーが秘書を後ろから犯しているような格好になっている。

映写室では、激昂したジェリーが、給仕の運んできた食器を乱暴に払い落とした直後、今度は盆を円盤投げのように投げる。それを見たラング(フリッツ・ラング)は「ギリシア文化を肌で感じたのか」。ギリシア神話のペルセウスは、彼の誕生以前に下っていた神託通りに、競技場で投げた円盤が当たってしまったことで祖父を殺してしまう。本作の台詞から推察すれば、殺される「祖父」とは、ポールが口にする「グリフィスやチャップリン」かもしれないし、自作リメイク作『怪人マブゼ博士』(1960年)以降は作品を撮っていないラングなのかもしれない。

ペルセウスは、鏡のように磨かれた盾にメドゥーサの顔を映すことで彼女の首を刎ねた。上述の寝室のシーンでは、カミーユが自分の体についてポールに訊ねる中で「鏡に映ってる?」と訊く台詞がある。この「鏡」は、撮影用カメラのレンズを暗示しているのではないか。「私の〜好き?」に「ウイ」を重ねていっても、「全て」には到達できない。ちょうど映画が個々のショットに於いて、フレームで切り取った範囲でしか被写体を捉えられないように。

劇中、「脚本は言葉だから、映像化された際には想像と違ったものにもなる」という台詞があるが、本作では言葉もまた、時に微妙なズレを孕んだ通訳を介して会話が為されている。ラストカットの「静かに」も通訳によって反復されることで、意味とピタリと一致することのない、ズレを孕んだ音響としての声を露わにする。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (3 人)ゑぎ[*] けにろん[*] 3819695[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。