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[コメント] ビューティフル・マインド(2001/米)

精神の病を映画として描くことの有効性と困難。それは或る意味、映画的演出が上手くいっているが故のジレンマ。だが妻の存在が充分に演出されていたかといえば、これは普通に力不足。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







数学的な美の映像化という点では殆ど成功していないが、ジョン(ラッセル・クロウ)にとっての数学者としての生を映像化するという意味では、幻覚の使い方は巧みなものだった。

講義にも出席せず寮の窓ガラスに数式を書きつけて煩悶する若きジョンは、教授に提出する論文のテーマすら掴めず、窓ガラスに頭を打ちつけ、文字通り数式にぶつかってしまうのだが、ルームメイトのチャールズ(ポール・ベタニー)はジョンの机を窓から放り、彼を外へ連れ出す。その結果、友人たちが一人の金髪美女を狙っている状況にヒントを得て、「ナッシュ均衡」のアイデアを見出すことになる。自閉的な状態からの脱出を促し、そのことで数学的な壁を突破させもする親友・チャールズ。なんとその彼が幻覚であったという真実。

一方、妻のアリシア(ジェニファー・コネリー)は、ジョンを入院させた医師と会話するシーンがあることなどから、実在の人物としてのポジションを維持し続けるのだが、ジョンの人生に占める重要度という点で、結局は最後までチャールズのそれを超えることがなかった印象だ。それ故、ジョンがノーベル経済学賞受賞スピーチで妻への感謝の言を述べるのも、どこか作為的に見えてしまう(このシーン自体が事実と異なる脚色であることとはまた別の話)。妻子との絆よりも、チャールズとその姪との関係の方がよほど心温まるものがあった。スピーチで「愛の方程式」云々と言われても空々しい。

尤も、アリシアとの出逢いのシーンでも、上述したチャールズとのシーン同様、「窓」が関わっている。講義をしようと教壇に立ったジョンは、外の工事の音に苛立って窓を閉め、「暑いので開けていいですか」という生徒の声に「自分の声が聞こえない」と拒絶する。そこでアリシアが窓を開け、工事の人に事情を話し、「しばらく他所で作業して頂けません?」と、上手く事態を収拾する。同じく「窓」に関わってはいるが、チャールズのシーンでは、下で驚く人らに「大丈夫、すぐ片付けるから」と声をかけはするが、全く一方的な台詞であり、アリシアのようにコミュニケーションが為されるわけではない。いずれも「窓」を開放しはするが、チャールズは数学的アイデアを、アリシアは社会性を、ジョンに与える。

こうした「窓」の開放そのものから解放されるのが、終盤の図書館のシーン。妻の作ってくれたもので食事をとりつつ思索に耽る、本に囲まれた空間は、ジョンの脳内世界そのもの。その内側で、学生たちという他者との交流が為される。

これまた幻覚であったパーチャー(エド・ハリス)は、ジョンの数学的才能の、社会的な重要度を彼自身に確信させる存在として機能する。ベンタゴンに呼ばれたジョンが暗号解読を行なうシーンで、上方に見える人影。これがバーチャーの幻覚の伏線となるわけだ。暗号解読が済んだら、事情も説明されず、すぐ帰されてしまうという、自身の行為の結果を知り得ない不安もジョンの幻覚をもたらしたと見ることも出来る。日常卑近の雑誌が重要な暗号であるとか、体に機械を埋め込まれるとか(暗証番号という「数字」が体内に埋め込まれる)、「世界の存亡が自分の手にかかっている」という立場など、妄想の典型のような状況が「現実」として進行するシークェンスには驚いたが、それがやはり幻覚であったことにも特に落胆はしなかった。幻覚であろうと、ジョンにとっては長い時間、生活の一部として生きてきたものであり、だからこそ、幻覚だと自覚してからも、その思い出を簡単に断ち切ることができないわけだ。

特に、チャールズとその姪に別れを告げるシーンは、感動的だった。他人の目にはパントマイムにしか見えないのだが、ジョン自身にとっては、家族との別れに等しい場面なのだ。医師がジョンの前に現れたシーンでは、こちらもジョンの身になって、医師と名乗るこいつの方こそ怪しいのではと疑わされる。この映画のトリックは、単に鬼面人を驚かす類いのものではなく、観客に病を疑似体験させる点でも有効なものだった。分裂症の症状としての幻覚は、この映画で描かれたように明瞭な形で現れることは稀であると聞いたが、そこが映画表現の難しい所だろう。つまり、患者自身にとっては明瞭で、確信されてある事象は、映画としては、明確に、目に見える形で表さざるを得ないということだ。

若き日にはライバルでしかなかったハンセン(ジョシュ・ルーカス)が、ジョンの復帰の手助けをしていくシークェンスも感動的なのだが、その辺りも含め、やはりこの映画では何らかの形で、「数学者」としてのジョンに関わる人物こそが、彼に近しい人物として映じるのだと再確認させられる。家庭内でアリシアが夫の幻覚に悩まされる状況は、サスペンス的な緊迫感で観客に感情移入をさせるが、そこに「愛の方程式」云々という美辞麗句で感謝されるような関係性が描かれていたとは思えない。

偉大な学者に敬意を評して万年筆を捧げるシーンは良い。あれは、武士が刀を、ガンマンが拳銃を捧げるようなものだ。万年筆は使用者の書き癖と切り離せない、思考の伴走者のようなものだろうから。

「ナッシュ均衡」着想シーンだが、皆が美女を取り合ったら誰も女の子をお持ち帰りできないという、或る意味、美女の側からすれば皆に無視される、可哀想な話にも思える。まぁそんな喩え話は構わないのだが、これがジョンの業績として社会的に認められる必然性が、この映画からは充分に伝わらないのは映画としての欠陥。先の「美女」を「核による世界制覇」に置き換えて描くなどすれば、パーチャーの幻覚が象徴していた、ジョンによる世界の数学的制覇が平和をもたらす、という妄想からの開放もより際立った筈。

(*余談)

少なくともこの映画に描かれた限りに於いては、ジョンの妄想はかなりのものとはいえ、アリシアに謂れなき難癖をつけてくるような類いのものでないだけ、まだマシだとも感じてしまう。ジョンが、世界を救うつもりで雑誌の切抜きに精を出しているからといって、それ自体は大して他人に迷惑をかけているわけではない。正気と狂気が曖昧に混在していることの厄介さは描かれているが、それほど暴れたり叫んだりもしないジョンは、割りと扱い易い患者なのではないか。

ジョンは、病に悩まされている間も、人間的な表情が失われることはない。実際の病ではそれが失われるからこそ、恐ろしい断絶性が生じるのだが。アリシアが、ジョンの病の再発に気づいて慌てて子供の所へ駆け戻るシーンはあるが、「何か取り返しのつかない危害が加えられるかもしれない」という疑念のもたらす恐ろしさが、このシーンに至る前に描かれていたわけではない。つまりは「危険への警戒心の常態化」という、生活そのものに植えつけられたストレスが充分に描けていない。傍で暮らす人間が「病気だから」と割り切ることの困難が、リアルに描かれていたかといえば大いに疑問。

実際のジョン・ナッシュの症状がどのようなものであったか知らないので、その辺りの判断は保留せざるを得ないが、映画化に際して幾分か美化された点があるという話を仄聞したせいもあり、一般人を丸め込んで安心させやすい感動的な「お話」としてまとめるのに都合の悪いノイズは排除されたのだろうかと、少し厭な後味も残る。実際の統失患者の怖さは、こんな映画より『パラノーマル・アクティビティ』シリーズでも観たほうがリアルに理解できる。これは誇張無しの本当の話だ。

(評価:★3)

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