★4 | 人情紙風船(1937/日) | 美術の集積度が窮乏の豊饒さに至る撞着は人間の鋳型の次元へ翻案され、無能の執拗な定義づけを始める。シニシズムは不幸の圧縮と加速には加担せず、長十郎を翫右衛門と対比させることで、ダメ男が退治されるまたひとつの撞着した浄化へと向かう。 | [投票(2)] |
★4 | もしも昨日が選べたら(2006/米) | アダム・サンドラーが学習しない。オチがフランク・キャプラだからどん底まで堕ちねばならず、下手に学習してもらっては困る。しかしここまで学習しないと、現実に帰っても感激は一過性に見え教訓を生かせるとは思えず、終始掴みどころがない。 [review] | [投票] |
★4 | ミッション(1986/英) | 場所同士の位置関係の蒙昧さを利用してデ・ニーロの逃避の印象をうやむやにするには当人がスジモン過ぎて、逆にデ・ニーロのむらっ気に応じて地形が変化したように見えてしまう。 [review] | [投票] |
★4 | ゴジラ キング・オブ・モンスターズ(2019/米) | マンガのような禍々しい世界観を体現するヴェラ・ファーミガにチャン・ツィイーが掴みかかると、そのキャットファイト興行からマンガであるという物語の自意識が透け見えてくる。 [review] | [投票] |
★3 | The Guilty/ギルティ(2018/デンマーク) | 技術に制約がなければ展開は詰まる。事件は即解決し、そこから事を進めようとすればもはやマッチポンプになってしまう。ゆえに広がりではなく良心が空間を構成していくのだが、地誌を面影で代替しようとするとき付随してくるのは自惚れの高揚である。 | [投票] |
★4 | 空母いぶき(2019/日) | 本田翼の場違にも程がある媚態が西島秀俊の英雄劇の一環を構成するどころか西島の操を試すような修辞的暴走となり、社会時評を装う本筋が訴えるのは抗事実的な叙事と主題である。 [review] | [投票(3)] |
★4 | 愛が微笑む時(1993/米) | ロカビリーと80年代バブルの出鱈目な並置が文化的に催吐的なのは、然るべくという宿命論がそもそも時制の誤りに他ならぬからだろう。 [review] | [投票] |
★4 | 悪人(2010/日) | たとえば、ママチャリのリングロックの開錠音が奏する貧困の轟きのような、深津絵里の薄幸を図像化する試みが成功しているだけに、満島ひかりという女難の襲来に脅かされるロードムービーが辛抱堪らなくなるのである。しかし、本当の女難は満島ではないのだ。 [review] | [投票(4)] |
★4 | 女王陛下のお気に入り(2018/アイルランド=英=米) | 時代劇を共時的に語る矛盾がエマ・ストーンのIQから文化的背景を脱落させることで、政治の裏付けを欠いた野望が目論見を果たした際、何もやることがなくなるという寓話を達成している。 [review] | [投票(2)] |
★3 | 彼とわたしの漂流日記(2009/韓国) | 差し入れの可能性自体が男から生き甲斐を奪うのは構わない。女の同情が嫉視にならないために男には他の可能性が必要だったのだ。が、
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★4 | 日日是好日(2018/日) | 感情を言葉で説明して寄りたいものに寄らずにはいられない具象化の力が、深みを剥奪しながら目論むのは、「時間化」という俗の極限であり、ジャンクフードのような豊穣が茶という究極の俗物趣味を迎え撃つのである。 | [投票(2)] |
★3 | 17歳のエンディングノート(2012/英) | 暴走した夢見る乙女回路が男優をみな去勢するという蛮行に走り、ダコタの傍らに横たわる去勢された男に生じる、性欲の痕跡ともいうべき隔靴掻痒が緩慢な病の体感を代替し、受け手の生理を直撃する。 | [投票] |
★4 | GONIN(1995/日) | 線条的な叙法に終始する本木雅弘の身体は初期北野というノンリニアな叙法とクロスオーバーしない。にもかかわらず、なぜ本木と北野という組み合わせなのか。 [review] | [投票(3)] |
★4 | 惑星大戦争 THE WAR IN SPACE(1977/日) | 浅野ゆう子の嬉戯的な肢体によって悲劇的量感へと圧搾された三角関係を森田健作の身体能力が明るい旋律で表現し、缶ピースの開封に手間取る池部良の気まずさの醸す恐るべき緊張がアナクロの極致をいく末期的世界像に戦慄を走らせる。
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★3 | 8月のメモワール(1994/米) | この算段の意味のなさは、貧困というよりも福祉の蹂躙に生き甲斐を奪われたドバイ市民の苦悶に近く、非経済に苛立ち量感への奉仕を羨望した夢が醜悪なツリーハウスという恵みに達するのである。 | [投票] |
★4 | 劇場版 テレクラキャノンボール2013(2014/日) | すべては擬制であっても行為さえすれば一瞬でドラマを抽出する神経生理の手管が食糞という世にも稀なる無為へとエスカレートしたとき、そこから男の求愛ディスプレイの悲愴を引き出すのは、アウトカーストの連帯に絆された女からの労りであった。
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★4 | ヌードの夜(1993/日) | バブルスーツが竹中直人の肉体を内包するのが緊張だとすれば、サスペンスが喜劇に耐えられないような、事をカテゴリーに帰属できない不安に苛まれるのだが [review] | [投票(1)] |
★4 | プールサイド・デイズ(2013/米) | スザンナが浜辺で読書をしている。これは文系浪漫という名の唾棄すべき助平であり映画ファンへの迎合である。性欲の強いこの物語にあって、自らが露見すべき場所が見出されたとき、文系浪漫のイヤらしさの発端となった助平心はようやく文系少年を救う。
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★4 | 野獣刑事(1982/日) | 偶然撮影された火事場以降、これはドラッグムービーにすり替わっていて、事態は、すべては泉谷しげるの譫妄のような、一種の放心として表出している。 [review] | [投票] |
★4 | リトル・ランボーズ(2007/英=仏) | 文明の再構成を試みるフィクションはどうしてもガジェット物になるから、80年代文明の縦深を統合するのは映画という活動よりも機材なのだが、それがガジェット信仰としてのランボーという物語を再発見している。
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