コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] ティタシュという名の河(1973/インド=バングラデッシュ)

余りにも短い再会が痛ましい。
田原木

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 ティタシュ河流域の村落を舞台に、その村に住む少女バションティを軸として、そこで起こる数奇な出来事を独特のタッチで描いた作品。

 この独特のタッチという表現を、より具体的に言うとするなら以下の三点である。

 第一に、奥行きのある構図である。この作品に限らず、リッティク・ゴトク監督作品ではやたらと前景に障害物を配した構図が用いられている。もっとも、その構図の意味がはっきりとしている場合は、あることもあるが少なく(例えば、同監督作品である『非機械的』の終盤に示される十字架の意味ははっきりとしている)、リッティク・ゴトクの個人的な好みに過ぎないのかもしれない。同監督作品である『雲のかげ星宿る』にみられる同様の構図に至ってはもはや惑溺と言ってもいいほどである。

 第二に、音響の編集である。インド映画と音楽とが密接な関係にあることは周知ではあるが、この作品においては作品内で強調される音響の編集が異様なのである。その例としては、結婚初夜のシーンで強調される花嫁(ラジャーヒ)の荒い息遣いが挙げられなければならない。大音量で延々と続く息遣いが、部屋の隅で身を硬くする花嫁とそれを見つめる花婿(キショル)のリバース・ショットと相俟って、場の緊張感と興奮を高めている。

 第三に、狂気の演出である。本作品では、程度の差こそあれ、キショルが狂い、その息子であるアナンタが狂い、またバションティも狂う。しかも、この三者は愛ゆえに狂っているのである。というのも、キショルは深夜海上を舟で航行中にラジャーヒを盗取されるという事件をきっかけに狂ってしまうし(この直前、波間に漂うラジャーヒの姿が幻想的な形でカットインされる)、アナンタは愛する母(ラジャーヒ)が死んでしまった悲しみのため女神の姿で現れるラジャーヒを白昼夢と言う形で何度も見てしまうし、バションティは愛する者を失うにつれ奇行が多くなっているからである。また、この狂気の演出の中では、劇中突如として挿入される白昼夢という形をとった幻覚のイメージが印象的である。例えば、先に述べた,アナンタが見る美しい女神の姿をとったラジャーヒのイメージや、枯れたティタシュ河を彷徨い歩くバションティが見る無邪気に笛を吹きながら離れていくアナンタのイメージである。前者が幽玄な雰囲気の中に厳格な神々しさを感じさせるのに対し、後者は純真さと柔らかさと共に無情さをも感じさせている。これら幻覚のイメージが強い印象を与えるがゆえに、またその幻覚の原因となった喪失感が深く伝わってくる。

 さらに本作品では指摘したいシーンが三つある。ティタシュ河で行われる舟漕ぎレースのシーン、祭りの準備を手伝うバションティとラジャーヒの二人の会話のシーン、キショルとラジャーヒが再会するシーンである。

 まず、レースのシーンは、スピード感溢れる編集により非常に力強く撮られており、本作中でも手に汗握るドキュメンタリータッチのシーンとなっている。また、この映画がティタシュ河とその周辺で暮らす住民の物語であることを再確認できるシーンでもある。

 次に、会話のシーンは、物語上、点と点が線となる重要なシーンであると共に、同じ男(キショル)を愛した女性二人が「言いたくない」という言葉をキーワードとして巧みに用いる詩情に富んだシーンとなっている。その直後、ラジャーヒは狂った男(キショル)が十年以上前に別れ離れとなった夫であると一方的に気付いて、何も言わず愛らしい表情でそっと料理を差し出すのだが、このシーンは何とも言えず良い。

 最後に、ラジャーヒとキショルが本当の意味で再会するシーンである。そこではお互いが完全に認識しあってはいないものの、徐々に認識の度合いを高めていく過程が描かれる(親子三人でティタシュ河で水を浴びるカットが短く挿入されており、これもまた良い)。その過程で、キショルが突然ラジャーヒを抱きかかえて遠くに連れて行く(この行動に驚き、ラジャーヒ気絶)のだが、勘違いをした村民がキショルを袋叩きにしてしまう。ココはキショルが「ラジャーヒ=妻」ということに気付き始めたところであって、キショルを袋叩きにする村民は二人の真の再会を阻む存在として描かれている。その後、意識を回復したラジャーヒが、倒れているキショルに気付き、身を引き摺りながら彼の口に水を運ぶ。その瞬間である。彼はカッと目を開き、彼女を見つめながら一言「嫁だ」と叫ぶなり事切れるという壮絶なカット。余りにも短い再会が痛ましい。この言葉を聞いた彼女は涙を流しながら力なく砂浜を波打ち際にかけて身を捩らせるようにもんどり打った後、十年前別れ離れになった時と同じように海水につかった格好で死んでしまう。狂ったキショルの鈍さ、村民の無理解、ラジャーヒの弱弱しい動きが非常にもどかしいのだが、それが悲劇性を高めているのである。

 なお、本作品では繋ぎが荒い上に様々なエピソードが織り込まれるので、一回で物語の筋を完全に掴むのは容易ではない。また、カースト間/農民漁民間の対立や、インドの村社会におけるよそ者や父のいない母子/母のいない父子の姿が描かれているのも見逃せない。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。