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[コメント] 娘・妻・母(1960/日)

成瀬の非情の描写が冴える。日常のあれこれを淡々と写しながら、身の置き所の無い人々の生き辛さを浮かび上がらせる。台詞の端々にチラつく残酷さに唖然、そして痺れた。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







人々の生き辛さ。それは「自分は何をして生きればいいのか」とか「自分のやりたいことがやれない」とかいうものではない。この映画における「生きる」とは「世間に自分の身を置く場所を見つけ出す」という実にそれだけのことである。勿論、「自分」にぴったり合う都合の良い場所などあるわけもなく、人々は合わない靴を履くような窮屈さを感じ続けることになる。

夫に死なれた長女が帰ってくる。彼女の身体が家の中にある、というだけで微妙な波紋は立つ。彼女の場所を空けるために家の人々は少しずつ気兼ねしなくてはならない。誰かが何かを言う訳でもないのだが…。

何かやりたいことを見つけて、それをするために周囲に働きかけ、環境を変えてゆく、というような生き方はここには存在しない。徹底的に受身なのだ。「自分」はその場に合わせて抑えるもの。それでいて、甘えられる相手に我慢をさせるのは平気で、それを許す方は貧乏くじを引くだけである。そして、生き辛い思いを何とかしようとする人々が最後に頼るのは結局、金である。成瀬の描写には容赦が無い。

家という枠の中でそれぞれの場所を分け合ってきた人々は、枠が失われた途端厚かましさを丸出しにする。貧乏くじを老母が引かされそうになった時、それまで黙って見ていた長男の嫁が彼女を引き取ると言う。嫁は義母と他人として関係を築きたいというのだ。彼女は「生きる」ことの意味を「自分の身を置く場所を見つける」から「他人と関係を結ぶ」と捉え直す。その関係が良いものになるか悪いものになるかは別として、とりあえず成瀬は一つの光明を示してドラマを締めくくる。この映画の与える印象はヒヤリとするほど冷たいものだが、それは決して拒否的なものではない。すべてが終わってようやく他人と出会うことができる。ならば、「終わる」ことはひとつの救済でさえあるだろう。成瀬はペシミストではあっても、冷たい人間ではない。ただ彼の目は見えすぎるだけなのだ。

(評価:★4)

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