[コメント] イン・ザ・プール(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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三木はいつだって、人間の再生を描いている。弱っている人や気を病んでいる人に回復の道筋を示してやることは、小説や映画などの物語表現が持つ、社会的な役割のひとつだ。作品に触れた人が、触れる前より少しでも幸せになったなら、それだけでその作品にはつくられた意義があるんだと思う。
『イン・ザ・プール』に描かれた3人はそれぞれに“異常”を抱えながら、社会生活を営んでいる。しかも彼らは社会的に「ダメになるギリギリ」のさらに一歩手前の、「ちょっとヤバ目だけどまだ平気そう」なくらいの位置にいる。つまり彼らは私たちの隣人であり、あるいは私たち自身である可能性もある。
ルポライターの彼女の強迫神経症がエスカレートし、ついに部屋に引きこもってしまう場面がある。彼女はピザの箱とボトルとチョコレートで自分だけの城を築き、「私はもうダメだ」と悟る。
「私、ダメです」
「やっとわかったのか。でも気にすんな」
そう言って、彼女のクライアントであり友人である編集長は、ズカズカとその城を切り崩して彼女のそばに寄る。
「私、心の病気なんです」
「知ってるわよ」
いくらでも、シリアスに描けるシーンである。ふたりがギュッと抱きしめ合ってオイオイと涙を流せば、観客の幾人かも釣られて泣くかもしれない。だが、三木はそんなことはしない。あくまで彼の本領である「笑い」によって、この重要なシーンを乗り切る。
ふと人生に悩んだとき、落ち込んだとき、そばにいる人間に真剣にその悩みを聞いてほしいときもある。抱きしめてほしいときだってある。だけど、誰かに自分の悩みを笑い飛ばされることで救われることも、確かにあると思う。安易な改善策を提示されるより、そばでただ一緒に笑ってくれたほうが楽になれるときだって、きっとあると思う。
三木はたぶん「笑い」の人間として、映画で自分に何ができるかをちゃんと考えて表現しようとしているんだ。「笑い」でしか成し得ないスタンスから、現代の病理に彼なりのアプローチを試みているんだ。
少し買い被り過ぎかもしれないが、三木聡という人は笑いにも映画にも恐ろしいほど真剣だし、極めて志の高い作家なんだと思った。
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