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[コメント] TAKESHIS’(2005/日)

夢という触媒を介したパラレルな世界に同一人格の複数キャラクターを配置することで、人間が「ある環境に存在してしまった」という不可避かつ本質的な悲哀を表現しているみたいな解釈をしてみようかと思ったが、途中でどうでもよくなった。(レビューは『Dolls』のネタバレもあります→)
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 どこをどう解釈しようが、どの道『TAKESHIS’』って映画はぜんぜん面白くないんだ。

 平日夜の池袋ロサ、客は8人くらいだったけど7人くらいはため息ついてたし、それぞれの客が別の顔して出て行った。面白い映画でも難解な映画でも、パワーのある映画を見た後の劇場のロビーはみんな似たような顔をしてる。だけど、この映画の場合、少なくとも私の見た限りでは、あの日の客はあの日『TAKESHIS’』って映画を見たことをすぐ忘れるんじゃないかと思った。

 かつて「映像は最高のおもちゃだ」と嘯いていた北野武。妙にマジになってるのか、飽きてるのか、まさかプレッシャーがかかってるとは思いたくないが、どうにもこうにも食えない映画を作ってくれたものだ。思い出されるのは『Dolls』のラストシーンで、枝にひっかかって動かなくなったあの2人の姿はまさに「ポイッと捨てられたおもちゃの人形」そのものだった。たけし自身が「映画つくり」を面白がれなくなっているとしたら、それはかなり残念である。

 土台「たけし映画」は、その成り立ちにおいて特別であって、処女作の『その男、凶暴につき』からすでに「たけし映画」としてしか存在し得なかった。だから1作ごとに新しい何かを求められてきたし、たけし自身もそれに乗っかったり裏切ったりしながら脳みそにいっぱい汗をかいて面白がってきていたように思う。

 私がたけしの映画が好きなのは、常に映像の中に「照れ」と「ケレン味」があったからだ。たけし自身の中にきっと拭い去れないである「しょせんおいらは浅草のストリップ芸人」という業(ごう)のようなものが、映画を作る上でのある種の「謙虚さ」になっていたような気がするのだ。その「漫才師が映画つくるんだから、自分が面白がることしかできねえ」って謙虚さがスクリーンを通して伝わってくるうち、「たけしってテレビじゃバカやってるけど、ホントは優しい大人なんだな」とか「すげー重たい悲しみを背負ってるんだな」とか、なんとなく彼の「素の部分」を覗けたような気がして嬉しかったりするのだ。そして、映画を何本も見ているうちに、「たけしの本質は映画の中にあるかも」なんて妄想したりするのだ。

 だから「たけしがたけしを演じる」なんて言われても、ぜんぜんピンとこない。たけしは「TVタックル」や「世界丸見え」で、いつだってたけしを演じてるじゃないか。『TAKESHIS’』に出てきたのは「たけしを演じるたけしを演じる」たけしと、「たけしじゃない人を演じるたけしを演じる」たけしだ。作ったのは「ずっとたけしを演じてきた、そのままの」たけしだ。私の好きだった北野武がどこにもいないじゃないか。

 まったくもってすべてが私の勝手な思い込みを書き連ねただけなわけだが、私には今の北野武が映画で何をやりたいのか本当にぜんぜんわからなくなってしまって、なんだかとても悲しくなってしまう。

(評価:★3)

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