[コメント] 東京物語(1953/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「最近じゃ平気で親を殺す子どももいるのだ」と酔った沼田はこぼす。「それに比べれば、いいほうだ」と。
15年前、初めてこの作品を見た。上記の沼田の台詞に、大昔も今も変わらないのだな、という実感を抱き、時代を超える作品とはこういうものか、と感嘆したのをよく覚えている。
当時、私は京子の世代だった。そして劇中の京子と同じように、「仕事を外せない」といって親を思いやらぬ大人たちの身勝手な振る舞いに憤りを覚え、ひまをもらって父母を案内した紀子に、人の善なる姿を見た。私は働くようになっても、この大人たちのように冷たい人間になってはいけないと考えた。仕事より大切なものがあるだろう。たまに上京した両親の面倒くらい見られるだろう。当然のように、そう考えた。
いま、私は志げの世代になった。ようやっと仕事を覚え、風邪だ腹痛だ急用だといって仕事を外せない日も決して少なくない。「明日、ひまをください」と申し出ることより、申し出られることのほうが多くなった。
今日、『東京物語』のなかに、私はちがう景色を見た。
志げや幸一は、親にとって誇るべき大人へと成長していた。彼らが親のために時間を割けなかったのは、大人として責任を背負う立場になっていたからだった。発熱した子どもに「ひまをください」といえる町医者がいるだろうか。
沼田は係長である息子を恥じ、「部長だ」と吹聴していた。仮に志げや幸一が責任のない勤め人の立場だったら、紀子のように何のためらいもなく「ひまをください」と申し出ていたにちがいない。それは、子どもたちが社会のなかで責任ある立場で仕事をしていることと、どちらも同じように幸福であり、同じように不幸なのだ。
15年前、「私はずるいんです」といった紀子をみて、私は「ルールを破った」と思った。善なる人であるあなたが、それを言い出してしまっては救いがないじゃないか。あなたは最後まで善であるべきだろうと思った。
今日、15年ぶりに紀子の「私はずるいんです」をみた。告白した紀子をみて「あなたはルールを守ったのだ」と思った。彼女だけが善だったわけではない。たまたま、そういう時期にそういう世代、立場だっただけなのだ。
家族のなかに、善や悪はなかった。ただそこには断ちがたいつながりがあるだけだった。
15年たっても、60年たっても、家族は変わらない。私と私の周囲だけが変わってゆくのだ。そしてみな、年をとって、老いて死んでゆくのだ。
私はこの映画を外側から眺めることなどできないのだと思った。この映画のなかに、いつみても私はいるのだろう。私が周吉の世代になったとき、『東京物語』はどんな景色をみせてくれるというのか。時代を超える作品とはこういうものかと、いま改めて感嘆している。
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