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[コメント] 紀子の食卓(2005/日)

相変わらずモノローグの洪水だが、そこに彼自身の言葉は存在しない。園子温はようやく詩人から作家になったのかもしれないと思う。
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 結局のところ新宿の女子高生集団自殺についての意味づけは達成されておらず、例えば身投げした彼女たちがウサギだとしたら誰が(何が)ライオンなのか、あるいはサークルの言う役割があの集団自殺にあったのだとしたらそれは社会に対して何を訴えかけようとしているのか、というより何かを訴えかけようとしたのかしていないのかも判然としないため、やはりあの集団自殺に関しては映画的だね詩的だねというインパクトはあっても『自殺サークル』におけるそれを、より深く掘り下げたという印象はない。

 また父親と姉妹が再会を果たすクライマックスにおいても父が娘たちに「母さん死んだぞ」と伝えるシーンとそれに対する姉妹のリアクション、そして、それでも姉妹が母親役のクミコの存在を今そこで受け入れるのか否かという重大な選択がポッカリと抜け落ちているのは映画が「家族の云々」を描く上で致命的な手落ちである気もする。

 と、冷静に振り返ればいくらでもツッコミようのある映画なのだけれど、2時間40分の長尺の中で私がそんな無粋なアレコレをぶつぶつと呟きながら画面を斜に眺めていたかと問われればそんな余裕はまったくなく、ただただ映画に飲まれてはならないと必死に抵抗するような心持ちで唇を噛み、つまりは、わっと声を上げて泣き出してしまわないように耐えた、というのが正直なところである。

 コインロッカベイビーだったクミコは、ひとつの家族が擬似的でありながらその中で本当の再生を果たしてゆく過程を目の当たりにし、ついぞ「私を殺せ」と言う。再生とはかつてそうだった状態へ立ち戻ることだ。クミコにとってその戻り先はコインロッカーでありそれ以前でしかないのだ。ここで彼女が意味する死は「ライオンに食われるウサギ」などではなく、虚無だ。殺せ、とは、私を無に還せ、という訴えである。この瞬間、ミツコはクミコを失い、紀子に還る。だが、ここでミツコが還った紀子は上京以前のモヤモヤを抱えた紀子ではなく、父が、あるいは紀子自身が理想と思い描く家族の一員としての紀子である。そんな紀子を妹ユカは「ミツコだか紀子だか判らない女」と呼ぶ。ここが最も効いた。はぁあっ、と変な声が出た。虚構の上に虚構を重ねることで「幸せ」にたどり着こうとする姉を、妹は心中で激しく糾弾したのだ。

 私は、それでもいいじゃないかと思っていた。今は虚構でも、「幸せなフリ」でも、それを続けていけばいつか本当の幸せにたどり着けるかもしれないじゃないかと思いながら観ていた。イメクラ嬢を「しょせん風俗じゃん」と切り捨てたユカがそんな擬似家族を断ち切って社会へ踏み出す姿に「そっちはそっちで大変だぞ」なんて余計な世話を回したい気分になった。

 どちらが幸せなのか、私にはわからない。だけど、「みんな幸せになりたいんだ」と思った。そんな単純なことを今さらに強烈に、本当に強烈に思って、たまらなく泣きたくなった映画だった。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)死ぬまでシネマ[*] tredair[*]

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