[コメント] パコと魔法の絵本(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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女のコが死んで悲しかったし、泣いた。だから★+1。
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物語には視点というものがあって、作家は作品世界の中に見えるものと見えないものを設定することでその視点を定める。観客はその視点によって作品世界への入り口を与えられ、見える部分を見、見えない部分を想像することで物語を楽しむ。
『パコと魔法の絵本』における物語の視点とは、パコの周りにいる大人たちがパコを見つめる視点だ。「パコに何が見えているか」は彼女の言動から想像する部分であり、パコの「おじさんを私は知らない」「おじさん、私に触ったことあるよね」というセリフから、私たちはパコの記憶が失われることと、失われない部分があることを知る。そして、その情報を得て初めて、パコの心に何かを残そうとする大人たちに共感し、その大人たちと同じようにパコの心の中に思いを馳せる。パコにそれがどう見えているかを必死で想像しながら、大人たちはがんばる。
大人たちががんばれば、パコの心に「何か」が残るのか。そんなことは私たちは知らない。登場する大人たちも知らない。知らないからこそ彼らは芝居への参加を「バカバカしいことだ」と躊躇するし、逡巡する。そしてその逡巡を乗り越えて芝居に参加する大人たちに私たちが感動するのは、それが「残せるかもしれない」という可能性に挑戦する姿だからだ。
そこに不確定性が残されているからこそ、大人たちの挑戦には価値がある。「俺たちが芝居をやれば確実にパコは喜ぶし、パコの記憶に残る」という解答が物語に用意されているなら、大人たちの逡巡には意味がなくなるんだ。
だから、この物語における「パコの心の中」は、誰にも知ることができない聖域だったはずだ。パコがあの芝居をどう楽しんだか、はこの物語の問題じゃなかったはずなんだ。パコに見えた風景がこの映画のような大スペクタクルだったとしても、妙な変装をした大人たちがヘタクソなセリフを連ねる滑稽な三文芝居だったとしても、芝居が幕を下ろしたときにパコが笑っているかどうかが問題だったはずだ。そこから私たちは「ああ、喜んでくれたんだね」と、パコの心の中を想像するしかないはずだった。それが物語の視点に準じるってことだ。
だのに映画は、あの芝居のシーンで盛大に「パコの視点」を描き出してしまった。「パコは芝居を夢中で楽しみました」という解答を明示してしまった。中島哲也監督はこのシーンで、観客から「想像」を奪った。聖域を侵したとも言える。これは傲慢だ。映画は観客に与えておいた視点を自ら裏切ったんだ。
前作、『嫌われ松子の一生』で、私は「中島哲也は決して映像を過信しない」と書いた。だが、本作の中島は明らかに映像を過信している。映像をつくる行為が物を語る行為を追い越している。中島は神になったつもりでいるんだ。そんな映画、まるで興醒めだよ。
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