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[コメント] ディア・ドクター(2009/日)

なんかもうアレなので、ホワイトアメリカザリガニの話をします。
林田乃丞

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 ホワイトアメリカザリガニというのがいまして、形そのものは普通のザリガニなのですが、文字通り色が真っ白なんですね。普通のザリガニの赤い部分が、白い。つまり、全部白い。主に観賞魚のショップなんかで、稚ザリの雌雄不明の状態なら980円とかで買えるわけですが、そもそもがアルビノ種で普通の固体より虚弱ですから、成ザリまで育つこともわりと珍しいらしく、そもそも野生ではほとんど生き残ることができない種なんだそうです。

 むかし友人でこれをしっかり成ザリまで育て上げたやつがいまして、そうなるとハサミなんかもしっかりデカくて、すごく勇壮な姿を見せてくれるわけです。その友人は60cmの水槽に砂を敷き詰めて、流木を倒して苔を根付かせて……と、その一匹の白ザリにかなりの労力とお金を費やしており、白ザリと一緒にヒメダカを50匹くらい入れていたんです。白ザリはヒメダカを捕食するんですね。そうなるともう、水槽のなかでひとつの世界が成立していて、白ザリは世界の王として君臨しているわけです。もう、それはそれは神々しい姿。

 その水槽にはエーハイムなる巨大な電動フィルターが設置されていて、常時濾過が行われているわけですが、それでも数ヶ月に一度は水の全取り換えをしなきゃいけないらしく、そのときには友人が水槽のなかに腕を突っ込んで、ぼくらが子どものころに普通のアメザリにそうしたように白ザリの背中をつまみあげ、洗面器に退避させるわけです。そうすると、さっきまで神だった白ザリがもう、いかにも貧相で虚弱な単なる小生物に見えてくるから不思議なものです。

 *

 さて、気が済んだので映画の話をします。

 冒頭、ひとりのニセ医者が登場します。遠景で走る自転車の人間が白衣をまとったとき、観客である私たちはそれを医者だと認めることになります。しかし彼は医者ではなかった。道路端に落ちていた白衣を着ただけの村人だった。

 白衣を着た人間を見ると、私たちはそれを医者だと思ってしまう。

 『ディア・ドクター』はファーストシーンから私たちの概念を突いてきます。ニセ医者の物語を描くうえで、これほどまでに適切な口上があるでしょうか。これは面白い映画になる、と確信を抱かせるに充分な語り口です。

 そして赤貝のシーン。“本物”の白衣の持ち主たる医師は、心臓マッサージを躊躇して家族たちを見回します。そして、そのまま呼吸を止めた老人を看取る決意をします。都会の大病院ではこうはいかない。僻地医療にとっての「死」は、医療のものだけではなく家族の暮らしの問題でもあるという実情が提示されます。そして村の人口の半分が老人である事実が告げられれば、この医師の仕事の大半は「死を看取ること」であることも諒解できるわけです。

 さらに老人が赤貝を吐き出して蘇生するという“小さな奇跡”のエピソードは、そんな村での医師の立場と受け止められ方、存在感の大きさを一気に描き出します。なんて鮮やかな脚本。

 そして映画は時系列を前後しながら、少しづつニセ医師の正体を暴きにかかります。事故で気胸になった患者に対し、看護婦は「私が打つわけにはいかないから」と言います。そして研修医に対し「先生が第3ナンチャラにもう1本打ちます」と言います。このセリフは嘘です。正確に意味を伝えるならば「先生が打ちます」ではなく、「先生、そこに打ってください」なのです。でも、研修医の手前、看護婦は「打ちます」と言うのです。この時点で、ニセ医者は一度、ニセ医者であると宣言されます。ところが、搬送先の外科医が「プロでも救急じゃなきゃ打てない」と言うことで、先の嘘は嘘でない方向へと丁寧に振り返されます。ああ、なんて鮮やか!

 その後も物語は嘘を暴きながら、嘘を積み重ねてゆきます。看護婦はニセ医者がニセ医者であることを知っている。そして代替用の胃カメラ写真を撮らせるシーンで、出入り業者もニセ医者の正体を知っていることが明かされる。嘘をつくことは悪いことではない、それでみんなが幸せなら、その方がいい。私はこの映画から、そのようなメッセージを受け取りながらスクリーンを眺めることになります。

 話が前後しますが、胃ガンの老女もまた、赤貝の老人と同様に「ニセ医者に最期を看取られる者」として登場します。ニセ医者は彼女に対する適切な医療行為をすべて放棄し、悪性腫瘍を放置することを決意します。前出同様に、僻地医療と地域社会の独特なつながり方を描こうとする設定です。ニセ医師は決して、それを「完全に正しいもの」として行っているわけではない。だから研修医に「私はニセモノだ」「資格がない」と告白しようとします。ところが物分りの悪い研修医が語る理想に押し切られ、ついに「医師免許がないんだよ」という決定的な事実を告げることはありません。ここでもまた、彼は嘘をついたことになります。

「来た球を打ち返しているだけ」

 そうしてニセ医師は、3年の月日を過ごしました。どんどん打ち返すうちに、大きな嘘の上に小さな嘘を累々積み重ねてきました。

 彼が老女の娘の思いを聞いて姿を消したのもまた、「来た球を打ち返しただけ」だったのでしょう。僻地医療にとって「死」が、家族の事情を優先すべき問題でもあるとするなら、その当の家族が悲しむ結果を導く“資格”は自分にはない、そういう思いだったのでしょう。一度はそのまま“殺す”決意をした老女の命を、ニセ医師は自ら姿を消すことで救うことにします。

 本物の医師である娘もまた、そんなニセ医師の思いを汲み取って「あの人ならどんな死なせ方をしたのだろう」と言います。図らずも「来た球」となってしまった娘がニセ医師の医療的怠慢行為を決して責めない心情もまた、深く心を打ちます。

 ニセ医師はたくさんの嘘をついて、村人から神と呼ばれました。自らも、神として君臨することに甘んじてきました。そして神ではいられない事情に面して「すぐ戻る」というまた嘘をつき、神という立場を捨てました。そして村人のなかでも、神は死にました。

 きっとまた、いつか新しい医師が派遣されてきたら、その医師はこの村で神と呼ばれることでしょう。僻地にとっての医療とは“神の業”なのだと映画は言っていました。それがニセモノだろうが本物だろうが、いま村人にとって必要なのはその“業”を為すものであるということ。そしてひととき、ニセ医師は嘘をつきながらも、間違いなく神であり続けたということ。彼が本来何者であったとしても、村人にとっては神であったということ。それだけでよかった、はずだったのに……。

 ここまではよかったー。ほんとによかったー。カンペキに今年ナンバーワン映画だったー。

 またラストです。『ゆれる』と同じだ。

 ラスト、ニセ医師だった男は、老女の前に姿を現し、あろうことか笑顔なんか見せちゃったりします。どの面さげて!って思いますよ。だって一度はあんた、そのおばあちゃんを見殺しにしようとしたじゃない。

 それは僻地という閉じられた社会のなかで、己を捨てて「来た球を打つこと」だけに専念してきた男だからこそ、そうして“神”になった男だからこそ赦された行為だけれど、大病院の患者さまの前にそういう格好で姿を現すのは、それは通らないよ。だってそれは「来た球を打って」ないもん。外角高めのクソボールにヘルメット投げ捨てて頭から突っ込んでいってるもん。それは見苦しいよ。

 この物語の登場人物たちは、みんながみんな少しづつ嘘をついていた。それを互いに赦しあって、生きていた。そうして社会を保って、世界を形作っていた。

 その世界にいきなり手を突っ込んできて、自ら姿を消したはずの“神”を舞台に引きずり戻したものがあった。それは西川美和の手だ。ニセ医師の「来た球を打ってきただけ」というセリフを最後の最後で嘘にして、彼の葛藤や逡巡によって複雑に彩られてきた物語を水泡に帰したのは、西川監督の“神の手”だった。

 これで、嘘が全部、嘘になってしまった。

 ラストシーン、病室で真っ白な衣装に身を包んだニセ医師は、色鮮やかな水槽世界から洗面器に取り出された白ザリみたいに、私には見えた。

 ひとつの物語に、神は2人いらない、って、私はそう思うんだ。

(評価:★3)

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