[コメント] イングロリアス・バスターズ(2009/米=独)
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圧倒的な映画だったと思う。のうみそのしわの一本一本にすべてのセリフと映像が浸潤してくるような、幸福な映画体験だったと思う。だけど、いままでみたいに「タラちゃん∩( ^ω^)∩ばんじゃーい」という感じには、決してなれない作品だった。
私にとって、タランティーノ映画は抜群に美味いチューイングガムみたいなものだった。特に、プロットよりもシーンに比重が置かれるようになった最近の作品群は、映画娯楽という言葉そのものであって、そのなかで死んでゆく登場人物たちもまた、その映画娯楽を機能させる優秀な装置として存在していた。その装置たちは極めて精巧なつくりであって、一見して“人間”とまったく見分けがつかないのだけど、映画が終幕すればその印象だけを残してきれいに泡になって消えてなくなる存在だった。
つまりは、タランティーノは彼の作品において常に全能の神として世界を司っていたんだと思う。その作中の、現実と似て非なる世界は、私たちをある一定の時間だけ映画娯楽という渦の中に巻き込み、スリルとセンチメンタルで心地よくシャッフルし、手際よく乾燥までして劇場から送り出してくれていた。彼の映画を見たあとには、いつも洗いざらしの爽快感があった。
だけど、今回はちがう。気持ちに湿り気が残っている。
ほんのひととき、復讐を忘れたために赤い命を散らしたあの女性のかなしみが、いまも気持ちに残っている。これまで映画のなかで何百人の人を殺したかもしれないタランティーノが、彼女に撃ち込んだたった数発の弾丸の痛みが、まだ私の気持ちのなかで疼いている。
タランティーノが戦争映画を撮るという話を聞いたとき、私はすぐにこう思った。
「きっとその作品は不謹慎だって、批判されるんだろうな。でもそれがタランティーノだもんな」
とんでもなかった。タランティーノはこの作品で、神であることをやめて、ひとりの作家として“戦争”という非常にやっかいなテーマと、真正面から向き合っていたと思う。しかも、クエンティン・タランティーノというキャリアを丸ごと背負ったままに、向き合ったと思う。
結果、『イングロリアス・バスターズ』は映画娯楽でもない、戦争映画でもない、人間のエゴと怨嗟が剥き出しで絡み合う非常に独特でグロテスクな作品になった。人が与えられた人生のなかで過ごす時間の意味という意味を片っ端から踏み潰していくような、血のかたまりの歯触りがする映画になった。
とてもかなしい映画だった。この映画を観て、私はもっとタランティーノが好きになった。とっくに彼は、映画ヲタクのレンタル屋の兄ちゃんなんかじゃなくて、いっぱしの作家になっていたんだ。
タランティーノ、次は何を撮るんだろう。「こないだはちょっとマジになっちゃったね」なんつって、またものすごい傑作をモノにするような気がする。
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