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[コメント] バベル(2006/仏=米=メキシコ)

イニャリトゥ監督の志の高さは尊敬に値する。従来の方法論を押し進め、ストーリーテリングの強度をも掴んだ成功作。実験的側面もまた作家の勇気と受け取った。
shiono

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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時間・空間を違えたエピソードを組み合わせることの意義は意外な関連性などではなく、それぞれがエモーショナルに共振することにある。A、B、Cと分割したときに、それぞれを相似あるいは対極であるとして枠に嵌め、反復や対比で見せていくというやり方はわかりやすい。でも世界はそんなに単純じゃない。この映画は、もちろん国の違い、文化の違いを描いているし、国が違っていても変わらない普遍的な人間感情も描いている。ただ、その方法が対比や類似に負っていないというところがいい。

モロッコユニット、メキシコユニット、どちらも未知の土地での移動の過程を丹念に描いている。観客はピット/ブランシェット夫婦に、あるいは彼らの子供に感情移入するように作られており、彼らとともにまた私たちも旅をすることになる。そこで見る風景は、彼らにとっては落差のある異世界であっても、土地の人間の営みとしてはやはりみんな同じなのだ。ただ、そのやり方は違う。

共通項としての普遍的な人間性、国による文化の違い、そしてそれぞれの家族にもまた個々の事情がある。そうしたマクロとミクロのパースペクティブを視野に納め、個人の心の襞にイニャリトゥは肉薄する。そこで重要な意味を持つのが東京ユニットである。

女子高生だったらヘアーを見せるより制服にパンチラのほうがエロいとか、歯科医や刑事を誘惑するくらいならテレクラ援交のほうがリアルだとかいう特殊な風俗事情は欧米観客には理解不能。監督のフィルターを通した異国の地としての東京のありようが、強烈な異化効果を発散している。

狩猟が趣味でモロッコ在住経験あり、妻が銃で自殺?まぁ商社員とかだったらありえるし田宮二郎の例もあることだし、まったくないわけではない。世界を、欧米と新世界とに分離したとき、そこからこぼれ落ちなお親近感を持ち得る都市としての東京という位置付け。菊地を聾唖者としたのは、日本人社会のすべてが同質に見えて実は確実に存在しているマイノリティの姿を描きたかったからではなかろうか。事実、彼女の抱える心の痛みというのは、他人が土足で踏み込んではいけないのだろうと想像させる。彼女が障害者だから、父子家庭だからというのではなく、それは本来そうあるべきなのではあるのだが。

東京ユニットで描かれる抽象性が、他のエピソードを揺さぶり重層的な不透明感をもたらしている。それは私たちが生きる今の世界の実態とそう遠くはないのではないかと思わせる。

(評価:★4)

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