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[コメント] クライマーズ・ハイ(2008/日)

後発の映画版では、123便墜落事故に踏み込むのではないかという期待、というより懸念があったのだが、原作のアプローチを外さず、むしろフィクションに大きく振ったことが成功した。
shiono

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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やはり編集局のドラマが圧倒的だ。キャラクターの描き込みは、個々人の背景を掘り下げるのではなく、ボクシングのような会話劇によって達成されている。カメラがそれを全方位的にカバーしていて、これでよくスタッフが見切れないものだと感心もするのだが、この撮影スタイルもまた、時間の経過とともに微妙に変化していく。

初日では、墜落事故の一報が編集局の面々を追い詰めているように、原田組の撮影は役者の芝居を追い込み、追い立て、役者たちはその制約の中で最大限の演技を引き出しているように見える。

これが日を追い、悠木(堤)が指導力を発揮するにつれ、「事故」と「記者」の関係性に変化が生じてくる。それに呼応するかたちで「演出」と「演技」のパワーバランスも揺れ動き、それが画面から伝わってくるのには興奮した。中盤から後半にいたっては俳優による「北関の紙面作り」が、「原田組の映画作り」を圧倒しているようにさえ見えてくる。

このシーソーゲームはまさに映画の虚構的なおもしろさで、それが密室のタイムリミット劇という形でより見えやすくなっている…とここまで考えたところで、この芝居の臨場感と非日常性は、もしかしたら「「映画撮影のシーン」を持つ映画」と似てはいないか、と思ったのだった。

一般的に、DVD特典によくあるメイキング映像が、愕然とするほど日常的で平板なものに見えるのと対極に、映画の中での「映画撮影のシーン」は、本編の映画の「地の部分」よりもさらに非日常的に見える。トリュフォーの『アメリカの夜』しかり、『カミュなんて知らない』のエンディングしかり。

劇中劇は本来こうした超−非日常構造を持っていて、『それでもボクはやってない』のような法廷劇からも同様の印象を受けることがある。要は、それを映画の演出としてどれだけ積極的に取り込むかという線引きの問題だ。本作のような群像劇は、それを劇中劇のように、「「映画撮影のシーン」を持つ映画」のように撮ることで、現実世界の凡庸さ(あるいは、”やり切れなさ”)を突き抜けて本物になる。

そもそも、『クライマーズ・ハイ』という物語は、本来的にいくつもの重層構造を内包している。日航機墜落事故があり、原作者の新聞記者体験があり、それが長い時間をかけて著者の中で検証・整理され、小説としての原作本が生まれた。それのNHKドラマ版が先にあり、そして今回の映画版へと至っている。虚実それぞれの世界で、多くの人々を通過してきた題材なのだ。

だから、この映画からは不思議なほど回顧的なニュアンスを感じない。1985年は今でもライブであり、2007年はひとつの視点を提供しているに過ぎない。フラッシュされる谷川岳のシーンでは、悠木の存在は徐々に希薄になっていき、最後には彼の物語だけがフィクションの世界に還っていくのである。

(評価:★4)

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