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[コメント] きみがぼくを見つけた日(2009/米)

存在自体がジャンプカットのエリック・バナ。原作の独創性もあろうが、あっと驚く仕掛けがこの映画にはある。映画において時間というものが何を意味するのか。その唐突さと残酷さに心震える。
shiono

**ネタバレ注意**
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あらゆる分野の作り手=「作家さん」にとって、説明責任の査定が悩みの種であるのは理解できるところだ。シュヴェンケ監督は、観客の観察力を信頼しあえて高次の表象に挑んでいて、ハリウッド映画においてその態度は賞賛に値すると私は思う。説明的な情報を制限し、観客との感性のやり取りで勝負する志の高さがあるのだ。

これまでのタイムトラベルを題材とする小説や映画は、出発点と目的点を明示せずにはいられなかったはずだ。だが、この映画では、今描かれているシーンがいつの時代のどんなシチュエーションなのかを、単純明快に示すことなく、だが観客が理解できるだけの情報をそのシーンの中に存在させて、私たちの想像力を刺激する絶妙なツボを心得ている。

もちろん原作の巧みさもあろう。地の部分である時間スパンが10年単位で存在し、そこで主人公の結婚、妻の出産、子育てという物語が描かれている。時間旅行が「点から点」ではなく、「線から点」になっているという複雑な構成がユニークだ。

肉体が衰え記憶が増える人生の行程が、タイムトラベルがあるために順列には現れてこない。過去のバナが現代に現れると、その時代のレイチェル・マクアダムスにとって、彼は記憶という意味でも肉体的にもフレッシュな存在になるということだ。少女マクアダムスのファーストキスのシーンや、パイプカットをする前の夫と仲直りするシーンなど、状況があまりに奇想天外であるが故に普遍性が剥き出しになってしまうという、その激しさには強く心を揺さぶられた。

乱暴に取り扱うと粉々に崩れてしまう壊れ物を扱うように、この映画は時間や記憶に細心の注意を払っている。時間の蓄積が記憶であり、それは人の感情を長きに渡り支配する力を持つ。映画が映画として成り立つ原理原則も、その辺りと無関係ではないだろう。

(評価:★4)

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