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[コメント] オーケストラ!(2009/仏)

ちょっとトミー・リー・ジョーンズ似のゆるキャラ主人公が織り成すハートフル音楽ドラマというルックスの下に、質実剛健な歴史認証が垣間見える。観客のミスリードを誘う脚本のうまさも特筆もの。
shiono

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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その天然ボケ的な脱力系ユーモアセンスをやや引き気味に見ていた序盤だったが、メラニー・ロラン登場シーンで映画は現実との接点を見出す。彼女の存在証明がこの作品の主軸である。観客は、ロランはアレクセイ・グシコフの娘なのではないか?と早い段階から想像を逞しくしてしまう。

楽団がパリに到着したのち、ロランとグシコフがディナーを共にするシーンの会話は示唆に満ちている。30年前、共産党の横槍で中断させられた演奏を、グシコフは”達することができなかった協奏曲”と表現している。男女の性的な営みのニュアンスを含んだこの言い回しは、レナという女性バイオリニストとグシコフとの間に生まれた私生児がロランであることを匂わせている。

しかし、クライマックスの演奏シーンで語られる真相はそうではなかった。かつて楽団に所属していたバイオリニスト、レナと、その夫イツハク(だったっけ?)との娘がロランだったのだ。しかしこのイツハクって何者?こんな影の薄いキャラではなく、グシコフがロランの父であったほうが劇的なんじゃないか?

監督がこの映画で描きたかったのは、父と娘の再会といった個人的な物語ではなく、国家に蹂躙された芸術家たちの歴史なのだ。だから、ロランは「ボリショイ交響楽団の娘」なのである。そしてロランはその事実を、彼らと共演することによって理解するのだ。

だからリハーサルは行ってはならなかった。古参の楽団員は、レナと瓜二つのロランを見たら、その意味を察してしまう。だから彼らは本番まで会うことを許されない。楽団員の逞しく破天荒な自由行動のお陰で、こうした段取りが成立している。実際、モスクワを発つまでは曲がりなりにも従順な団体行動をしていた彼らが、自由の都パリに降り立った途端、旺盛な本性を露にするというその姿は、国家の統治では人の心は縛ることができないという真理をユーモラスに表現してもいる。

こうした人間的な感情は芸術家の特権ではない。芸術崇拝に陥っていないのも本作の美点のひとつである。アメリカのゴスペル、ブラジルのサンバなどと同様、音楽と共にある生活の描写もある。チャイコフスキーは権威ではないのだ。

重ねて、クライマックスの演奏シーンは感動的である。古参楽団員がロランを見る表情と、感じるかい?わかるかい?といいたげなグシコフの眼差しのインサートショットが効果的だ。音楽とキャラクターが一体となっている。ロランは現在から未来へと生きていく楽団の娘なのだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (11 人)tkcrows[*] DSCH[*] 代参の男[*] Orpheus ドド[*] 浅草12階の幽霊[*] ぽんしゅう[*] maoP 3819695[*] カルヤ[*] シーチキン[*]

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