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[コメント] インセプション(2010/米)

ノーラン監督はやりたいことをしっかり把握し、首尾一貫した作家の論理で強力に物語を紡いでいく。細部にまで配慮が行き届いた力技に文学性は乏しく、やけに理屈っぽい口上が台詞の多くを占めるが、そこがまさに狙いなのだ(追記しました)。
shiono

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







プレステージ』で奇術を描いたノーランがこの映画に投じたアイディアの発端は催眠術である。被験者を半覚醒の状態で眠らせ、言葉で誘導して深層心理を探る療法をビジュアルとして見せたのが本作だ。ノーランは映画というものをひとつの見世物小屋、ひとときのイリュージョンとして想定しているに違いない。

同様のバーチャル時空間を扱ってはいても、『マトリックス』のような電脳世界ではないから、夢を共有する装置は家庭用の血圧計のように安っぽい。動作原理もまったくもって不明だ。ディリープ・ラオの調合師という古風な役割からしても、この物語は未来志向のテクノロジーではなく、アナクロな催眠術ショーから生まれたものだと私は思う。

観客の深層心理に訴えかける演出も巧みだ。例えばディカプリオがターゲットを催眠にかける場所は新幹線の車内であるとか、ファーストクラスの機内であったりするのだが、無機質で清潔な空間、かつどこかへと移動する交通機関であるというイメージは、私たちもまたどこか異空間へと連れ去られるという気持ちにさせられる。スーツ姿で仮眠を取るという無防備な姿もいい。

ディカプリオがエレン・ペイジに語って曰く、記憶を再生してはならない、夢の風景は新たに作り上げなければならない、というが、夢というのはそもそもが断片化された記憶の再構成によって作られている。同じように、この映画も、ノーラン監督の個人的な映画の記憶が反映されているはずだ。無重力ホテルで爆発物を使ってエレベーターを動かす手はずは『2001年宇宙の旅』のワンシーンを思わせるし、死んだはずの妻のイメージが繰り返し実体化するというのは『惑星ソラリス』を強烈に意識させる。この二本は私にとってのSF映画の双璧であり、6歳年下のノーラン監督もまた同じ気持ちなんだろうな、とシンパシーを感じてしまった。

夢の中で夢を見るという入れ子構造のアイディアは最も優れた部分だ。夢の中の話なので、無秩序に場面を転換させることも可能なのだが、このプロセスを挿入することによって、時間は引き延ばされ、メンバーは一人減り、そして夢の風景も深層心理の深いところへと向かっていくような印象を与えるヴィジュアルになっている。階層が深くなるにつれ、現実から異郷、異次元へと、遠いところに旅をしている気にさせられるのだ。このあたりも、単に映像で遊んでいるようにしか見えなかった『ラブリー・ボーン』や『運命のボタン』よりも格段に優れている。

欲を言えば、年老いた渡辺謙を迎えにきたディカプリオ、この両者の顛末については途中でカットしているが、ここはマリオン・コティヤールとのやり取りと同じくらいの重きを置いて描いてもよかったのではないかと思える。今回のミッションの成功を見届けたのはトム・ハーディーだけなので、機内で覚醒した渡辺がすぐに受話器を取るのは理屈ではおかしいのだが、救いにきたディカプリオを命の恩人と思ったというのなら話も通じる。

そのディカプリオだが、タフな仕事を成し遂げたことと、妻への思いからの決別という、公私混同してうじうじと苦悩する男から吹っ切れたエンディングというのもさっぱりしていて私の好みだ。ラストカットの駒の挙動をうんぬんする感想が多いが、暗転する直前で駒はバランスを失っているではないか。演出意図としては勿論、これは夢ではなく現実なのだ、という幕引きである。端正なクロージングというのはこういうものだ。

追記

ラストカットについては断定的な物言いはしないほうがいいのかな、という気がしてきました。そこで、書き直しではなく追記しておきます。

中盤、パリの廃ビルのワンフロアで、夢の予行演習をする場面がある。顔をひっぱたいても目覚めない場合、座っている椅子ごと蹴り倒すんだ、という「キック」の説明がある。正立静止した物体がバランスを失って倒れる、というのがこの場面での椅子の挙動である。

一方、これが夢ではなく現実であると把握する手段として、その人だけがその質感を知っている個性的で小さな物体を携帯するよう求められる。これが「トーテム」である。

なぜディカプリオのトーテムが駒なのか。夢ならば駒は止まらず正立し回転し続ける。現実ならば駒はやがて倒れる。それらの挙動は映像として私たち観客が確認することができる。

ラストカットの駒は、観客を映画という夢から目覚めさせるための、ノーラン監督の「キック」なのだ。彼はこの映画全体を、大きな催眠装置として作り上げているのである。

私の解釈は変わらず、エンディングは夢ではなく現実である、ということになるが、ここにひとつの分岐点がある。あまりに深く夢に入り込んでしまった場合、ただ椅子を倒すだけでは事足りない。序盤のディカプリオは夢の中の妻に捕らわれているから、現実に戻るにも労力がいる。だから椅子ごとバスタブに突き落とすという荒療治がある。

ここで夢の中のディカプリオは、ガラスを突き破って流れ込む水の奔流に恐れをなす。室内調度品の雰囲気といい、これは『ポセイドン・アドベンチャー』ではないだろうか。沈みつつある豪華客船で何が起こるか。水平面は急速に傾きを増し、やがて上下が反転する。あのパリの市街地の風景である。

エンディングの空港から家へといたるシーンは、明らかに「これも夢ではないか?」と思わせる演出がされていて、妙な不安を覚えるところだ。監督はラストカットで私たちをキックする。でも、深く深くこの映画に入ってしまった観客は、未だに目覚めていないのかもしれない。かくいう私もこの映画の世界に囚われてしまったようだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (8 人)狸の尻尾[*] Orpheus 煽尼采 甘崎庵[*] 浅草12階の幽霊 ぽんしゅう[*] FreeSize[*] 林田乃丞[*]

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