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[コメント] 赤い砂漠(1964/仏=伊)

ジュリアナの神経症が暗示するもの。
shiono

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この作品のような映画は、明示されているものを額面どおり受け取るわけにはいかないという気にさせられる。環境汚染がジュリアナの神経症に起因しているとは考えにくく、きっと裏があるのだろうと仮定して、しばし想像の翼を広げてみることにしよう。

まず気付くのは、ヒロインの性的欲求不満である。男から買った食べかけのパンを貪り食う冒頭のシーンはもとより、釣り小屋ではそのままズバリの台詞があるし、同じシーンで霧に濡れた埠頭に大型船が滑り込んでくる場面は性交のメタファーととれる。

もうひとつは上流階級意識。工場の管理職である夫、メイド付きの邸宅や、市街に店を開こうとしていることからも、彼女が有産階級のいわゆる有閑マダムであることは明白だ。リチャード・ハリスとて、口では進歩主義だと言っているが、その出自は成功した建築家の跡取だ。上流階級であるジュリアナが、工業化と民主主義によって、労働者にその立場を脅かされるという図式が浮かび上がる。

だがしかし、こうしたイデオロギー的なものからいかに自由になるか、ということを追及しているのがこの映画なのではないかと思う。前述の埠頭に入港する船にしても、その暗喩の成立を拒むかのごとく、映画は自ら船の存在を消し去ってしまう。

島の少女の挿話もそうだ。形を変えた夢としても解釈できるこの美しい寓話は、帆船の特権的シンボル性から深層心理を読み解くことの可能性を提示はするものの、その直後にそれを単なるひとつの子守唄として泡のように処理してしまう。

殺伐とした工場群の造形、群像としての労働者たち、これらを政治的哲学的イデオロギーとしてではなく、純粋に審美的なヴィジョンとして捉えようとするアントニオーニの試みは、赤く濁った汚泥や黄色く澱んだ煤煙ですら、その生理的な嫌悪感を超え、私たちの感情を複雑に揺さぶってやまない。そこにこそ映画というものの底知れぬ凄みがあるのではないかと思う。

(評価:★5)

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