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[コメント] ノーカントリー(2007/米)

フロンティア・スピリットの成れの果て
のらぞんざい

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







たぶん、僕は頭が悪いのでうまく整理して書くことができないと思うけれど、

まあでも、書こう。このモヤモヤした気持ちを少しでも言葉として吐き出そう。

しかしまあ、僕なんかが今更言うまでもなく誰もがご指摘されている通り、

これは一つの時代の終わり、あるいは時代の変化、

何かが劇的に変わってしまったこと、

もしくは何かが誰も気付かずにひっそりと姿を変えていたこと、

時代に取り残される者、

時代の変化が生み出した者、

過去が必死で追い求めてきたものの実像は果たして何だったのか、

現在我々が追い求めているものの実像なんてどこにあるのか、

そんな、時代の変遷の中で浮かび上がるいくつかの真実を、

コーエン兄弟なりの視点で描いた映画、

大袈裟に言えば、そういうことなのだろうし、

ペキンパーやイーストウッドとはまた違った形で、

西部劇の終焉を描いた映画、という意味で、

なんちゃって西部劇ファンの僕ですら直視するのを躊躇うほど、

虚しさ全開、トミーリーの顔面造形の時代遅れ感にわけもなく涙が出そうになるほど、

あまりにも冷静に、乾いた視点で開拓者の魂を「無力」の一言で突き放す残酷な映画でも、ある。

西部の終わりを描くにしては、

トミーリーの掘り下げが甘い、

ずいぶん殺人鬼の方の描写に入力し過ぎだ、

という意見は、ごもっともと思うけど、

しかしふと、こんなことも考えてしまう。

要は、

神話を持たないアメリカという国が、

神話を追い求めて作り出した「古き良き西部」の虚像をトミーリーが体現しているとすれば、

その逆、開拓者たちの生きることへの執着、物欲・権利欲、拡大主義、

先住民差別から愛国心、自己中心的倫理観その他諸々…

開拓者たちの、つまりはアメリカという国の「負」の部分を集積してできた歪な生き物、

アメリカが追い求めてきたフロンティアの終着点で生まれた化け物、

フロンティア・スピリットの成れの果て・・・

それがあの男、滑稽な殺人鬼アントン・シガーだったのではなかろうかと。

そう、僕はあのシガーにこそ西部の終焉を見た気がするのだ。

たとえば、アントン・シガーは一見、人の生死の感覚に麻痺した男のように思えるのだけど、

実はそんなキタノ映画の主人公みたいな奴じゃなくて、

この男、他人の死へは無頓着だが、自分の生に関してはずいぶんと執着する。

(シガーが自分で銃傷を治療する様のねちっこい演出。

唐突に挿入される自動車事故が示すシガーの怪物性=不死であることのしつこいくらいの描写。)

この自己の生への傲慢な執着と、一方で他者の死への圧倒的な無頓着ぶりは、

生きるために他者への容赦ない暴力を正当化してきた、開拓者たちの抱える矛盾そのものである気がする。

あるいは、彼こそが最後のカウボーイなのかもしれん、とすら僕には思えてくるのだ。

無論、ここでいうカウボーイは勇気と正義と愛国心を湛えたジョン・ウェイン的なアレではなくて、

あくまでヒロイズムとは無縁の、

血と暴力で彩られたアメリカの排他と略奪の歴史のアイコンとしてのカウボーイ。

(もちろん、カウボーイがそういう役割を担った史実なんてないのだが)

テンガロンハットを被ったトミーリーが

悲哀に満ちた顔で「人間は銃で牛すら殺せなくなっちまったヨオ・・・」と呟く一方で、

シガーは(本来牛を殺すべき)家畜銃でバッタバッタと人間を殺していくところなんか、

まるで僕には、繁栄の糧として消費し続けた家畜や先住民たちが不在たる今、

それでもなお力を誇示し続けんがため、見境なく人を殺していく最後の開拓者、

のようにすら見えるのである。

ああ、僕にはもう、このシガーが時代の変遷が生んだ最後のカウボーイにしか見えんのだ。

フロンティアを見失って、それでも膨張し続ける自身の欲望を抑えることもできず、

国境(=フロンティア)に捨てられたカネ(虚栄だ。カネこそシンプルに虚栄を象徴する)を追い求めて暴力を繰り返す。

もちろん、フロンティアなど、ないのだ。

しかしそれをわからんのだ。だから拡大し続けようとする。

大きくなろうとする、という感情しか彼には残ってないのだ。

いや、感情なんてもんじゃない。

もっと無垢で邪悪な意志、というか、そんな、制限なく肥大化し続けた欲望の最終到達点、

の、ようなもの。うまく言えんけど。

失われしフロンティア・スピリット、なんてよく聞く文句だけど、

たぶん初めからないのだ、そんなものは。

・・・あるいは、モスはそれを知っていたのかもしれん。

ベトナムに出征したモスはそこで何かを知ったのかもしれん。

国境にカネを捨て(無論あとで取りにいったのだけど)一旦アメリカを出るモスは、しかしまた国へ戻ろうとする。

国境を司る元軍人はモスがベトナム帰りであることを知り、

傷ついた兄弟を家へ迎え入れるかのように、再びアメリカに案内する。

(この映画の舞台となる1980年は、保守回帰が始まった年…モスは「逃げる者」でもあり、「戻る者」でもあった)

アメリカが、漠然と何かを悟った時代だったのかもしれん。

彼らがずっと追い求めてきたものの実像が、虚像でしかなかったことを。

国境を往来する彼は、時代の迷いそのものであったのかもしれない。

もしくは、国境を超えたにも関わらず、

結局は帰ってこざるを得なかった、

家族の元へと、故郷へと帰結するしかなかった彼こそが、アメリカの限界、フロンティアの限界を

体現しているのかもしれない、とも思う。

(何度も言うが、カネは一度国境で捨てられる。明快なメタファーであると思う)

結局、この映画が描く二人の男の追いかけっこと、それを傍観するしかない一人の男の物語は、

「フロンティアなどない」という一つの真実に、

気付かされて家族の元へと戻ろうとする傷ついた若者(結局戻れないのだが)と、

気付かずに自己の無尽蔵な欲望だけが膨張し続ける開拓者の化身たる男、

「昔はあったのだ」と過去の栄光(それは恐らく彼が見た夢のような、幻でしかないのが)に身を寄せることしかできない男、

時代の変遷で迷い彷徨う男と、時代を見失い決壊する男と、時代の流れに取り残される男と、

三者三様に、アメリカの実像を体現していて、

それはまたちょっと大袈裟にいえば、世界の実像、でもあると思う(そう、オールドメンは日本にだってたくさんいる)。

しかし言うまでもなく、そこに主人公はいない。

中心にポッカリ穴が開いたかのようなこの映画の構造は、

そのまま映画の持つ虚無感を強烈に炙り出していて、やっぱり、部外者の僕ですら直視できないような厳しさがある。

最初にも言ったけど、コーエン兄弟の視点はあくまで冷徹にして峻厳で、

行き場のない魂たちをそのまま何もない荒野に放り出して弄んでいるかのようで、

意地の悪い映画だと思うし、少し恐いとすら僕は思う。

しかし、この圧倒的な虚無の描写力は、やはりこの作家にしか描けなかったものじゃなかったのか、

映画に明確な主題を置きたがらない彼らだからこそ、この映画はどこにも属さない稀有の傑作に成り得た、

と、今は考えている。

・・・

読み返してみたらずいぶん支離滅裂だ。

ああ、やっぱり頭の悪い僕にはこの映画を見て受けた漠然とした印象を言葉になんかできやしないのだ。

(だからもう、改筆せずにこのまま載せてしまおう)

最後にもう二つほど言っておきたい。

まず一つに、この映画の欠点は「おもしろすぎる」ことだ。

僕はこの映画のいくつかのシーンを見て『突破口!』や『ゲッタウェイ』を想起してしまった。

というよりむしろ、この映画が『突破口!』や『ゲッタウェイ』であってほしいと願ってしまった。

そう思わせてはダメだろう、と正直思う。

そこがコーエン兄弟のコーエン兄弟たる所以、と言えばそれまでなんだろうけど。

あと一つ。

モスとシガーのキャラクター造形は素晴らしかったが、

トミーリーに関してはずいぶん紋切り型であったように思う。

というかぶっちゃけ、あんなオッサンに「昔は良かった」なんて呟かせても、何を今さら感は拭えない。

あれではモスとシガーの追いかけっこばかりが際立ってしまうのも無理はない。

(評価:★4)

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