コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 永遠の語らい(2003/ポルトガル=仏=伊)

確かに物語の刺激は結末部に集中している。しかし画面の刺激は全篇にわたって横溢しており、「字幕を追う」ことではなくもっぱら「画面を視る」ことに視覚を費やす観客にとっては退屈を覚えている暇など一瞬もありはしない。一言で云えばショットの強度が高いということだが。
3819695

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







しかし「ショットの強度」などといういささか符牒めいた厭らしい言葉を持ち出さずとも、たとえば「犬」の使い方はどうだろう。船に繋がれ、海に落ちそうで落ちないを繰り返す犬。「物語」にとっては必ずしも必須のものではない、このような独創的でチャーミングかつサスペンスフルな瞬間こそ「映画」の面白さではなかったか(ところで、映画監督の演出力を測定する最も簡便な方法のひとつは、犬の使い方を見ることです。監督の良し悪しは映画内の犬を見ればすぐに分かります。『荒武者キートン』のバスター・キートン、『ぼくの伯父さん』のジャック・タチ、『工場の出口』のルイ・リュミエール、彼らの演出力の高さは端的に犬の扱いに見て取れます)。

さて、終盤のテロル勃発=船の爆発が唐突であるということに異論はないが、しかし「唐突であることに意味がある」という点ではしごくまっとうな展開でもある。ある出来事がある主体にとって「唐突」であるのは、その出来事の生起がその主体の拠っていた因果律からは導きえないものだからであり、「テロル」とは、因果律Aに対して、それとは異質の因果律Bを暴力的に介入させる行為にほかならないからだ。その意味でテロルとは原理的に唐突なものであり、映画は唐突さをもってしなければテロルを表象することはできないだろう(云うまでもありませんが、この映画に当てはめて云えば、「ある主体」とは作中人物/観客のことであり、「因果律A」とは映画が終盤に差し掛かるまでもっぱら拠っていた西欧中心の因果律、「因果律B」とはテロリストが拠って立つ因果律のことです)(また、ここで因果律とは「物語」と云い換えてもかまいません。「9・11テロル」とはそれまで「アメリカ合衆国の物語」が無視・圧殺してきたところの「イスラム原理主義の物語」がアメリカ合衆国の物語に対して果たした暴力的な介入のことであり、実際私たちはそれ以降イスラム原理主義の物語に触れずしてアメリカ合衆国の物語について言及することはできなくなりました。もちろん、以上はことのわずか一面をごく乱暴に云ったものに過ぎません)。

しかしそのような議論は私の得意とするところではないし、したがって穴も多いだろうから、もっと映画そのものに即した視点から「船の爆発」がまっとうな展開であるということについて述べてみたいと思う。

結論から云うと、映画における「船」とは、爆発に限らず沈没や転覆、座礁、あるいは諸々の人為的事件に見舞われる宿命にあり、何らのトラブルも発生せずに目的地にたどり着くことはきわめて稀な呪われた乗り物なのだ(ここで船とは、便宜上ボートや筏など水上を移動する乗り物の総称ということにしておきます)。たとえば『アウトロー』『アギーレ 神の怒り』『アフリカの女王』『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』『SOSタイタニック 忘れえぬ夜』『巌窟の野獣』『キートンの船出』『キー・ラーゴ』『飢餓海峡』『救命艇』『魚影の群れ』『狂った果実』『サーカスの世界』『白い嵐』『戦艦ポチョムキン』『太陽がいっぱい』『白鯨』『ポセイドン・アドベンチャー』『ライフ・アクアティック』エトセトラエトセトラ……。見た映画の総数などタカが知れた、またきわめて薄弱な記憶力しか有していない不肖の映画ファンである私でさえ即座にこの程度の実例を挙げることができるのだから、真っ当な映画ファンであればここに二百や三百の作品名を付け加えることもそう難しくはないだろう(これらの作品はまさに思い出すままにいいかげんに挙げたものに過ぎず、ジョン・ヒューストンの作品に限って三つも掲げられていることに他意はありません。また、やけに「立派な」映画ばかりが並んでいるような気もしますが、それも偶然、あるいは私のええ格好しいの性質が半-無意識的に働いただけの結果であって、したがってそこに『史上最悪のボートレース ウハウハザブーン』のような名前が紛れ込んでいたとしても、論旨にとっては何の不都合もありません)。

すなわち、一面ではまごうことなき「船」の映画である『永遠の語らい』が船にまつわるいかなる異常も発生しないままに終了したとすれば、そのほうが「映画」にとっては異常な事態なのだ。私は以上に述べたことが正論であるなどと云い張るつもりはまったくないが、しかし詭弁を弄しているつもりも奇を衒っているつもりもない。映画における船を見つめてきた私の目が、その(量としては貧しくもあるところの)体験から帰納した発言である。

あるいは、仮に上に述べたような事柄をいっさい無視したとしても、最小限の手数で最大級のサスペンスを創出するここでのオリヴェイラの手つきの鮮やかさを否定することは誰にも出来ないのではないか。そこには単純な状況設定・カット・繋ぎだけしかない。それにもかかわらず、そこで私たちが目撃するのはいまだ見たことのないサスペンスフルな光景だ。それは最高難度の詰め将棋のようだ。きわめて明晰な頭脳と卓抜した技術の持ち主のみが為しうる業だ。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (4 人)disjunctive[*] ゑぎ[*] Orpheus shiono

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。