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[コメント] まあだだよ(1993/日)

どこか人を不安にさせる色使い。黒澤のカラー作品はすべて何やら禍々しい影に侵されている。表面上はハッピーなはずのこの遺作も例外ではない。回想内の「列車」など良くも悪くも異様な画面を多く持つあたりは流石だが、このコメディ勘の欠如ぶりには閉口する。登場人物たちの笑顔が観客の笑顔を喚起しない。
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しかし、ああ、これは「ねこ」を愛する者にとっては涙無しに見られぬ映画だ。ノラが焼け跡をうろちょろするカットには心を潰される。このようなカットを撮れるのならば全篇『ノラや』をやってくれていたほうが、少なくとも私に対する訴求力は大きかっただろう。だが、敢えてねこ好きかつ『ノラや』への思い入れを強く持つという「映画」に対してはいささかアンフェアな立場から云えば、この松村達雄の造型は失敗だ。松村ははじめから好々爺として登場している。この松村を憎むことができる観客はおそらくいないだろうし、したがって教え子たちが時を経ても彼を慕いつづけることもよく理解できるのだが、だからこそ「たかが」ねこ一匹いなくなっただけで松村が腑抜けになってしまうことの意外性は失われてしまっている。爆笑と号泣に引き裂かれるという『ノラや』の読書体験とは、まず内田百けんが「ねこを溺愛するようにはとても見えない強面の偏屈爺さん(平山三郎が著した中公文庫版『ノラや』解説から引用すれば『あの気むずかしい、謹厳な大先生』)」である、という認識に支えられるものではなかったか(「認識」と云ったが、ここで読者は必ずしも事前に百けんについて知っている必要はない。百けんはそのような「認識」に読者を誘導するように『ノラや』の筆を進めている)。「気むずかしい、謹厳な大先生」ではなく平面的にいい人な(劇中の語を借りれば「金無垢」の)この松村では、ねこの失踪に遭って腑抜けになることも、小学生に向かって丁寧に頭を下げることもさもありなんというものである。驚きすなわち感動が生じない。

だから、あくまでも松村を金無垢で通すのならば、このノラのエピソードはまるごと余計だったはずだ。しかし黒澤はそれを撮ってしまった。端的に云って、それは映画全体を構成する感覚が劣っていたためだろう。しかし裏を返せば、そのことは黒澤が今撮られつつあるひとつびとつのカットに命を掛ける作家だったということを証している。それは掛値なしに感動的な姿勢であり、才能だと思う。黒澤がしばしば不出来とさえ云ってよいいびつな映画を撮り、しかし同時にそれが人を惹きつけるものであったのもそのためではないか。『まあだだよ』は黒澤らしい不出来でチャーミングな映画だ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)寒山拾得[*] セント[*] 緑雨[*]

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