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[コメント] 麦秋(1951/日)

感動的だ。何もかもがまったく感動的だ。この感動は「映画は映画である」という命題がこの上なく力強く肯定されたことへの感動でもある。
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ところで、ここでは小津映画における登場人物の会話時の姿勢について述べてみたいと思う。

小津映画を幾本かでも見たことのある者なら誰しも気づくように、小津映画の登場人物は誰かに話しかけるとき、その話しかける相手の方に顔を向ける。特に小津的とか小津調とか呼ばれるものが完成される中期・後期以降の作品では、必ずと云ってよいほど「話しかけるときに相手に顔を向ける」姿勢は徹底して行われている。『晩春』では真横に並んでサイクリングをしているにもかかわらず、原節子宇佐美淳は台詞を発するとき首を九〇度近くひねって相手に顔を向ける。『長屋紳士録』では敷居を隔てて別々の部屋にいる飯田蝶子青木放屁が首を九〇度以上にひねりながら会話をする。

このような(私たちの「現実」の基準から云えば)明らかに不自然な場合でも小津映画の登場人物は「話しかけるときに相手に顔を向ける」のだが、なぜそこまで小津がその姿勢を徹底させたのかについては、はっきり云って分からない。画面に対する小津の感覚がそうさせたというのが妥当なところだろうが、もしかしたら「話をするときは相手の顔を見るのが礼儀というものだ」といった小津の道徳的信念がそうさせたのかもしれないし、結局は分からない。ただ、ひとつ云えることは、あまりにも「話しかけるときに相手に顔を向ける」姿勢が徹底して行われているので、その姿勢は小津映画においては「標準」となり、「話しかけるときに相手に顔を向けない」姿勢が「非標準」となるということである。

麦秋』では、その会話時の非標準的姿勢(=話しかけるときに相手に顔を向けない=ぼんやりと前を眺めている)が私の記憶する限りでは二箇所あるのだが、それはどちらも「往時を振り返り、懐かしむ」台詞が話されるときである。

一箇所目は淡島千影原節子の家に遊びに来た場面で、やはり遊びに来る予定だった井川邦子志賀真津子が来られなくなったことを知って残念がる原と淡島の「ウーム。学校時分あんなに仲よかったのに、みんな、だんだん遠くなってっちゃうのねえ……」「仕様がないのよ……。そういうものらしいわ……」であり、二箇所目は、国立博物館の庭に横並びに座った菅井一郎東山千栄子の会話における菅井の「早いもんだ。康一が嫁をもらう、孫が生まれる、紀子が嫁に行く。――今がいちばんたのしい時かもしれないよ」である。

これは何を意味しているのか。往時を振り返る台詞とは、云い換えれば、相手にではなく自分に向かって働きかける台詞である。会話時の標準的な台詞のあり方は「相手に働きかける」ものであるから、上の「自分に働きかける」台詞は非標準的なものだと云え、その非標準的な台詞は(小津における)非標準的な姿勢の「相手に顔を向けない」と正確に対応している。そして非標準的な台詞が持っていた「往時を振り返る」といった趣きは、非標準的な姿勢によって視覚的に強化される。なぜなら非標準的なるものは標準的なるものとの差異において際立つからである。

サイレント後期以降の小津作品にいくつもの「規則」があるというのは、大まかに云って正しい。上で仮に「標準」と呼んだものがすなわちここで云う「規則」なのだが、規則には例外がつきものであって、小津においても「ローポジション」「フィックス」という規則から外れた「俯瞰」や「クレーンショット」があるし、同様に「話しかけるときに相手に顔を向ける」という小津的規則にはそれに反する「相手に顔を向けない」という例外が存在する。

規則は安定性と自己完結的な美をもたらし、例外はその例外性(規則との差異)自体によって私たちに映画的動揺をもたらす。小津はこのような規則/例外と自由に戯れることによって画面上に無限の豊かさを生み出している。

(評価:★5)

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