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[コメント] バベル(2006/仏=米=メキシコ)

全面的にダメとは云わないけれども、小賢しい映画。
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イニャリトゥ作品ではおなじみの時系列の操作だが、これはむしろイニャリトゥではなく脚本のギジェルモ・アリアガの特質だろう。 同じくアリアガが脚本を務めながらも堂々たる傑作ぶりを誇っている『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』と比較すれば明らかなのだが、本作に欠けているのは「撮影」だ。

ブラッド・ピットケイト・ブランシェットのパートで特に顕著なのだが、カメラの小刻みな揺れが目立つ。手持ちカメラによるドキュメンタリ風、つまりリアリティを醸し出す狙いなのだろう。それ自体がすでに小賢しいのだが、それはまあよい。私が指摘したいのは、それにしては顔面への極端なクロースアップが多いということだ。と云うのも、顔面へのクロースアップとは非現実的・非人間的な視線にほかならないからだ(ふつう私たちは人の顔面を凝視したりしませんよね)。

そのような非現実的な視線を採用しておきながらカメラを揺らして現実を装うという行為はむしろ、堂々とフィックスで勝負できないという、自分が作り出す画面の強度に対する監督の自信の無さの顕れであり、強い云い方をすれば、画面設計の放棄である。常に強度の高い画面を作り出すことなんて誰にでもできることではない。だからイニャリトゥ程度の監督に今さら大したことのない画面を見せられたところでことさら失望もしない。だが、その大したことない画面を「クロースアップ+ドキュメンタリ風の揺れ」という形で隠蔽しようとするのは、涙ぐましい工夫とも云えるが、やはり小賢しい。

と、ずいぶん単純かつ乱暴な議論になってしまったけれども(たとえば、クロースアップが必ずしも非現実的・非人間的視線であるとは限りませんし、「クロースアップ+ドキュメンタリ風の揺れ」ですばらしい効果をあげている映画もあるでしょう)、上の例に限らず、概して「ま、こんなもんでええやろ」とでも云いたげないいかげんな撮影・演出が目につく。高尚な、あるいは社会的なテーマに取り組むのは結構だが、それを具体的に画面として提示することができなければまったく意味がない。私たち観客は画面以外のものを視ることはできないのだから。

(評価:★3)

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