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[コメント] ハプニング(2008/米)

現在「映画」は「世界の終わりの風景」を撮ることに取り憑かれている。ここで「現在」とはおそらく「9.11以降」とほぼ同義であろうが、このような事態は映画史上はじめてのことではないだろうか。それはともかく、これはただならぬ絶望感。それを運んでいるのは「風」だ。シャマランは世界の終わりにただ風を吹かせてみせる。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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飛び降り自殺者群であるとか首吊り死体の連なりであるとか抗いがたい魅力を持ったいくつかのイメージを有しているし、夫婦の関係性の描き込みがいささか甘いとは云え「通話管」などの素敵なアイデアを用いて感動的と云ってもよいドラマを醸成してもいる。派手な音響演出は好みではないが、観客にショックを与えることにかけては成功を収めていると云ってよいだろう。しかしこの『ハプニング』におけるシャマランの映画的野心は次の一点に尽きるように私には思われる。それは、すなわち「風」である。

映画は結末を迎えるに当たっても「異変」の真の原因を明かすことをしない。植物の吐く毒素か、バイオ・テロルか、放射能か。しかし画面に即して云えば、異変の原因が風であることは瞭然としている。画面はそのように語っているのだ。

ところで、風とは恐怖の予兆/予感の表象として映画にとっては伝統的と云ってもよい細部である(たとえば、ジャック・ターナーキャット・ピープル』)。それに対してここでシャマランが試みていることは、風を恐怖の対象そのものとして描くことだ。

一方、映画にとって風はロマンティックな出逢いや再会を演出する細部でもある(たとえば、クリント・イーストウッドマディソン郡の橋』)。すなわち映画における風とは多義的な存在としてあるのだが、「通話管」を経てのマーク・ウォールバーグズーイー・デシャネルの再会シーンはドラマがその風の映画的多義性(恐怖/ロマンティックな再会)によって引き裂かれたシーンとして感動的であり、また『ハプニング』が「風」の映画であることを決定づけている。

論が前後するようだが、むろん風とは不可視のものであるのだから、これまで「風」と云ってきたものは画面的には「草木のそよぎ」とでも云い換えられるべきものだろう。たかが草木のそよぎによって死滅してゆく人類。それがシャマランの提出する「世界の終わりの風景」なのだ。そうであるならばその風(草木のそよぎ)の見せ方にもう一工夫あってしかるべきではないか、といった文句ももちろんあるのだが、ここでのシャマラン演出は「たかが草木のそよぎによって死滅してゆく人類」などという魅力的なハッタリをとにかく貫き通すだけの豪快さと繊細さを併せ持っていると私は思う。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)DSCH モノリス砥石 煽尼采[*]

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