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[コメント] ターミネーター4(2009/米)

不覚にも感動してしまった。たとえ馬鹿でかい殺人/捕獲機械と対峙する恐怖・絶望の大きさが『宇宙戦争』の八分の一以下でも、その志向の正しさは認められるべきだ。チェイス・シーンの「縦」のスペクタクル性が『キートンの大列車追跡』の一〇分の一に満たなくとも、そこにアイデアを詰め込む姿勢は評価されるべきだ。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まず、云うまでもないことではあるのだが、「『ターミネーター』シリーズを定義づけるもの」をめぐる私たち観客(という一般化が傲慢だというのであれば少なくとも、私)と製作者の間の齟齬について整理しておこう。

ターミネーター』とは、やたらと強い機械男のアーノルド・シュワルツェネッガーに「お前は未来の救世主となる男の母親だ。だから殺す」と悪ふざけとしか思えない、しかしどうやら事実らしい理由で追いかけられる恐怖なりハラハラドキドキなりの映画だったはずだ。シリーズが続くと、追いかけてくる輩はシュワルツェネッガーとは別の機械男や機械女になるし、また「お前は未来の救世主となる男本人だ。だから殺す」ともなり、さらにシュワルツェネッガーは主人公に協力する立場を取りさえするが、「状況」の基本的な構図に変わりはない。つまり、『ターミネーター』シリーズとはそうした「状況」の映画であるのだと。しかし製作者たちはそう考えなかったらしい。なぜ機械男たちは「お前は未来の救世主となる男の母親だったり、あるいはその本人だったりする。だから殺す」などと無茶を云うのか。未来において人類軍と機械軍の最終戦争が起こっているからである。この「世界観」こそが『ターミネーター』シリーズを定義づけるものなのだと。

かくして『ターミネーター4』は製作される。しかしですよ、と観客は云う。ま、いわゆるひとつのデストピアってことでしょうけど、人類軍と機械軍の最終戦争ってそれ少しばかり陳腐すぎはしませんか、と。今まで観客がその陳腐な「世界観」を受け入れてきたのはその陳腐さに気づいてこなかったからではまるでなく、『ターミネーター』シリーズを「世界観」ではなくて「状況」の映画として理解してきたからではないのか。その「状況」を純粋化させるためには、むしろ世界観は陳腐なほうがよい、とまで思ったかもしれない。では、陳腐な世界観の映画として生まれることを予め定められた『ターミネーター4』のどこに勝算などあるのか。製作者は一言、「力業だ」と。例によってILMの力を全面的に借りて、(実際ジェームズ・キャメロンでもジョナサン・モストウでも別によかったとは思いますが)マックGを起用して、陳腐な世界観を力業で押し切るのだと云う。

果たして『ターミネーター4』はどうだったのか。はじめに述べたように、私は不覚にも感動してしまった。むろん、モトターミネーターとかいう二輪車とのチェイスを筆頭にそれなりの評価は与えられてしかるべきシーンをいくつか揃えている、とか、やっぱりT−800の登場シーンにはびびった興奮した、などと云うことはできるとしても、この程度のアクション演出やスペクタクル創出に感動を覚えるほど私は素朴な観客ではない(世界最強のアクション演出家はロベール・ブレッソンである)。それではどこに感動があったというのか。やはり「顔面」である。クリスチャン・ベールと同じでまるで面白みのない顔面の持ち主だと思われたサム・ワーシントンの瞳が、次第に哀しげな湿度を湛え、人間なのかロボなのかという葛藤以上の複雑なニュアンスを帯び出してくること(ベールの施す電気ショックで蘇生するいいかげんさにも感動した!)。生き抜くために、まだまだあどけなさの残る少年の顔面に闘士の厳しい覚悟を刻まずにはいられないアントン・イェルチン。そのお供で、初登場シーンを除いてはベールに爆破ボタンを差し出すぐらいしか働きらしい働きをしていない、しかしやたらに印象に残る聾唖の少女ジェイダグレイス。損な役割を背負わされたムーン・ブラッドグッドも、ワーシントンとのメロドラマをどうにか形にするだけの顔面は見せていると好意的に云ってもよい。

映画は「顔面」だ。まるで期待をしていなかったから、不覚にも感動してしまった。

(評価:★4)

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