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[コメント] かずら(2010/日)

噺の運びや諸々のギャグがテレビサイズに収まりがちだが、案外に木村信也のルックは映画らしさを主張したがっている。また、笑いどころにおける三村マサカズ大竹一樹の発声と間合いは最適を求めて絶えず微調整が施され、さすがに名人上手の芸だ。芦名星も絵に描いたような素敵婦を厭味なく演じている。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







大竹のキャラクタ造型はナンセンスな奇人に堕ちることをすんでのところで踏みこらえている。もちろん、数分から三〇分程度の笑劇を数篇連ねた大竹・三村の自作自演公演においては、そのナンセンスな奇人の登場こそを私たちは待ち望んでもいるのだが、この大和田なる作中人物の行動動機における「人情」と「欲得」の按配は、リアリティ準拠とは異なる方法でキャラクタを、延いては作品世界を成型する。

按配、ということについて云えば、たとえば以下もその絶妙の例として挙げてしかるべきだろう。三村が鬘着用者であると露見しそうになると、いつであれどこであれ突如として大竹が現れて、その窮地を救ってみせる。「実に映画的な」と云って差し支えない神出鬼没ぶりであり、大竹のキャラクタにギャグ的な神秘性が備わる由縁でもある。しかし映画は後になって次のようにそのからくりを明かす。すなわち、実は彼自身も鬘着用者であった載寧龍二が、三村が窮地に陥る度にそれを大竹に電子メールで伝えていたため、大竹は三村を助けに駆けつけることができたのだと。ここで、これでは何とも面白みのない種明かしではないか、と不平を洩らしかけた瞬間に気づくのは、いくら電子メールで連絡を受けたからといって、そんなにすぐさまに三村のもとに到着できるというのはおよそ現実的ではないということだ。要するに、リアリティの水準においては、大竹の神出鬼没性を映画はいまだまったく解き明かしていない。劇を縦に貫いて二重三重に仕掛けられたギャグであり、観客を納得させる風を装いながら煙に巻く演出態度である。

(評価:★3)

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