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[コメント] ノルウェイの森(2010/日)

瞬間移動の映画。移動のシーンはことごとく省略されている。「自動車」も「列車」も周到に排除されている。その代わり彼らはやたら歩く。菊地凛子が驚愕の高速散歩を繰り出す草原や公園のシーンに顕著であるように、しかしその徒歩はどこかへ辿り着くための移動とはなりえずに堂々巡りしかもたらさない。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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およそ生物としてのヒトたるもの例外なく逃れることができない「生」と「死」を「性」を仲立ちにして描くらしい『ノルウェイの森』は、まず映画から徹底して生活感を拭い去るという逆説的戦略を展開する。「学食の値段」や「タクシー初乗り料金」がさりげなく示され、また「学生運動」が点景的に描かれるなどして、これが架空の世界ではなく「一九六〇年代末の東京」に立脚した物語であることの証拠作りも演出家は怠っていないが、やはり生活の空気は限りなく薄く、どこまでも抽象的な一九六〇年代末の東京が舞台とされている。それを実現する具体的方策のひとつとして「地理感覚の欠落」が為される。「東京」「駒込」「国分寺」「神戸」「京都」「奈良」「青森」「旭川」といった台詞中に言及される地名は記号に留まり、リー・ピンビンは「山」も「草原」も「海岸」も国籍不詳の「絵に描いたような」美しく荒々しい風景として撮り収める。そして、菊地が住まう京都の山奥にあるという療養所と東京の間を松山ケンイチは一瞬で往来する。移動手段を示したシーンも、溶暗・溶明も、所謂カーテン・ショットもなく、文字通りの一瞬である(※)。そこに距離は存在していない。むろんこの療養所およびその周辺にはトラン・アン・ユンあるいは村上春樹なりの冥界的イメージが重ねられているのだろう。したがって療養所-東京間を瞬間移動する松山は、生と死の間はゼロ距離であって、それらはまさに硬貨の表裏のような(もしくは、入れ子のような)関係としてあることを代弁する。しかし彼は「季節が巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく」とも云っていなかったか。だから、そのとき映画は終わる。死(者)を距離的概念によって把握できるようになったとき、松山は物語の住人として振舞う資格を喪失する。

(※)移動手段を示したシーンがないというのはその通りなのだけれども、これに関連することを少し補足しておきたい。冒頭の記述「『自動車』も『列車』も周到に排除されている」は実を云うと少々正確さを欠いている。自動車は完全に排除されているわけではないのだ。背景に小さく写り込んだものを含めてもおそらく十カットにも満たないが、自動車は確かに登場する。主要なのは次の二シーン、すなわち高良健吾の自殺シーンと、松山と初音映莉子のタクシー・シーンである。どこかへ向かっているというよりもただ会話が交わされる場として撮られているような後者において、松山のナレーションは唐突に、また「述懐はしても登場人物の〈その後〉は語らない」という暗黙の了解だと思われた流儀に反して、数年後に訪れる初音の死を告げる。『ノルウェイの森』において自動車はあくまでも移動手段ではなく、死をもたらす装置としてのみ導入されるようだ。

(評価:★3)

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